ガレージのシャッターが上がる音が聞こえてくる。まだ眠いよ。パジェロの音だ。寝る。

視界が赤い光に覆われる。暑い。薄目を開けると西日で射抜かれた。カーテン閉めるの忘れてた。エアコンをゆるく入れていたが、寝汗でぐっしょりになっている。太陽の力は偉大だ。エアコン切って窓を開けよう。屋根裏も暑いだろうから換気しておくか。

階下からおかんの甲高い声が聞こえてくる。何やってんだ?

下着を着替えて、一階に下りてリビングに行ってみると、体操服姿の美佳がおかんに髪をいじられていた。

「なにやってんだよ、お前ら」美佳はきょとんとして俺を見た後、ちょっとうつむいて顔を赤らめた。かわいい。一方おかんは俺の言葉を無視して美佳の髪の毛をいじり続けている。
「体育の授業の時、髪の毛邪魔やろ?三つ編みの練習と髪留めの使い方を教えていたんや」
「でも体操服に着替える必要はなかろう」ブルマーから伸びるスリムで長い足から目が離せない。いや待て。何見てんだ俺。
「へへへー、ええやろー女子中学生のブルマーやでー」
「ちょっと、恥ずかしいです」おかんの余計なセリフでますます辱められているんじゃないのか?
「ブルマはおいといて、足、長いねー、俺にサドル合わせたママチャリも簡単に乗れたからなー」
「あんたの足が短いんやないんか?」
「うるさい、黙れ、親譲りだ」
すでにTシャツのゼッケンは2組の色で「由比」になっている。亜紀と同じ組だ。それはそうしてもらわないと困るんだけど、蔵地のお父さんが手を回したのか?
「この長さだと三つ編みは一人ででけへんから、体育のある朝にやってあげるからな。あたしが忙しいときは正一がピンチヒッターでやるんやで」
「なにい?」
「よろしくお願いします」顔を真っ赤にして美佳が頭を下げている。がっくりとソファに座り、置いてあった牛乳パックからコップに注いで、一口飲む。
「あー、わかった、引き受けた」
「亜紀ちゃんの髪でやったことあるやろ」
「何度か」亜紀に頼まれてやったっけ。左右がばらばらになって怒られたっけな。
「亜紀ちゃんの髪って長くてすてきですね!」
「6年の頃から伸ばし始めていたっけな」もう一杯牛乳を飲む。寝汗でのどが渇いた。「短い方が動きやすくていいって言っていたのに」
「…正一さんって鈍感で朴念仁ですか?」なにい?
「二日目でそこまで見抜くとは、大したもんやな」
「何言ってんだよ、お前ら」
「なんでもあらへん」「なんでもないです」
「できた。鏡見てごらん」美佳がテーブルに置いてあった手鏡を手に持ってのぞき込んだ。
「かわいいです。一人じゃ無理ですね」
「よし、じゃあ次は水着や」「えっ」「はぁっ?」

「さっき買ってきたやろ、さささ、着替え着替え」ゴマエーの袋からごそごそと何かを取り出している。学校前のスポーツ屋が店を畳んだからゴマエーが小坂中の制服を供給している。袋からスクール水着を引っ張り出した。
「こ、こ、ここで着替えるんですか?」美佳がおろおろしながらおかんに問う。俺には異存はない。
「そんなサービスはいらん、風呂場んとこで着替えておいで」いや、そもそも着替える必要はあるのか?
「行ってきます」
美佳が水着を持って風呂場の方に行く。白くて細い脚から目が離せない。
「スーパーで試着したんだろ?なにもうちで着てみることなんかないじゃないか」
「なんや、不満でもあるのか?」
「いや、ない」正直に答える。
「ほな、ええやん。どうせ授業じゃ近くで見られへんのやから」
なんか論点がずれたような気がするが、まあいいか。

「着替えましたー」風呂場の方から美佳がやってくる。右手に体育Tシャツとブルマとパンツを抱えて。
「いいわねー男の子だと、つまんないからねー、スクール水着でも絵になるわあ」
小坂中の女子水着は、いわゆる旧スクらしい。一時期競泳タイプになったのだが、トイレで不便という意見が圧倒して、旧スクに戻ったとかなんとか詳しいことは知らない。
「どうですか?正一さん」くるりと一回転してこちらを向く。
「どうって、その、」
「あんたなあ、女の子が、ぱーっと舞い上がるようなこと言ってみ」
「似合う、いや、かわいいよ」こうか?これが正解か?
「ほんとですか!うれしい!」まぶしい笑顔とはまさにこのことか。「一緒にお風呂入りましょう!」「待て」
「お前も水着やで」
「そ、そうだよな、わかってら」
「?。あ、それより亜紀さん誘ってプール行きませんか?」それはいいが。
「なんで亜紀?」
「お前はアホか」おかんのツッコミが理解できない。
「偶然プールで会うより最初から三人で行けば角が立ちませんよ!」
よくわからんが
「じゃあ、そうしよう。明日蔵地さんとこ行くときは水泳の用意をしておこう」

いつものように風呂桶を洗う。
一緒に風呂にはいるとかどこからそんな発想が出てくるのか。あまりに暑くて水遊びでもしたかったのか?
湯温を40から39に下げて湯張りスイッチを押す。
洗濯機置き場兼脱衣スペースの洗濯物籠が2段になっている。男女別なのか?美佳が自分から要望するはずがない、おかんだな、おかんの仕業だな。洗濯も2回に分けられるのか?俺の部屋の屋根裏で寝起きするのに洗濯物にそこまでの配慮が必要なのか!

今夜は美佳はすんなりと眠りにつけたようだ。夜風が虫の鳴き声を運んでくる。網戸の掃除をしたほうがいいかな。
庭に降り立ち、昨夜はさぼってしまった日課のトレーニングを始める。オヤジが几帳面に整えている芝生の冷たさが、足の裏に気持ちがいい。当分の間は俺が芝刈りをやらないとならんなー。
ストレッチを終わらせ、站套から始める。小学校に入る前から、オヤジと毎夜繰り返した基礎トレ。またしばらくは一人でやらないと。
蠍座が黄道を忍び上がる。今夜は静かだ。

まぶしい。視野が光で蹂躙される。
「…ちさん、正一さん、朝ですよ」
視覚が意識のケツをけっ飛ばす。美佳が肩を叩いているようだ。
むう、また起こされてしまった。
「おはようございます。もう朝ご飯の用意ができてますよ」大きな目、細いけどくっきりした眉、柔らかい微笑。エプロン姿だ。エプロン?突然現実と非現実が怪しくなる。フォーカスが顔から全身をスキャンする。しかもエプロンの下はタンクトップにホットパンツという最小限度の装備だ。ノーブラだな、明らかにノーブラだよな、ノーブラって何かの罠か?現状認識が非現実に傾く。夢じゃねえの?
「おはよー、早起きだなー、全然気づかなかった」とりあえず、挨拶をしてみる。接近を検知できなかったのはあまりにも無様だ。耳が悪いのかな、俺。
「よく寝ていらっしゃったから、そーっと降りたんです」
違う。俺が油断していたんだ。だめじゃん。ついでに世界が現実であることを認識できた。
「ありがとう、着替えて降りるから先に食べていて」
「キッチンで待ってますね」

気がつくと背中を一筋の汗が流れ落ちている。朝っぱらからヘヴィだぜ。
着替えて階下に降りると、キッチンではまだ二人が立って調理をしていた。
「おはよー、食べないの?」後ろ姿をしばし鑑賞する。美佳の脚は見る値打ちがあるが、おかんの脚は迷惑だな。
「おはよー、お弁当作っているから先食べてて」「もうすぐできます」そっか、プールに行くんだっけ。
テーブルの大皿に積まれたホットケーキから、バターとシロップの濃厚な香りが漂ってくる。
よく冷えた牛乳をコップに注ぎ、そのまま飲まずに二人の動きをぼーっと観察する。コップが結露で曇ってくる。最初の水滴が耐えきれずに這い落ちる。目の高さまで持ち上げて、掠めるようにして美佳の脚と牛乳の白さを比べる。よく動く脚だ。スリッパも買ったんだな。エプロンと同じ薄いピンク色だ。
渇きに負けて一口飲む。うまい。

朝食が終わって、庭に散水してからプールの用意をする。海水浴用の海パンが見つからない。面倒だ、学校の海パンを持って行こう。
美佳はまだ屋根裏でごそごそやっているので、先に下に降りる。おかんが戸締まりをしていた。
「換気扇をつけておいてくれよー」これを忘れると帰宅したときにひどい目に遭う。
「せやね。美佳ちゃんはまだなん?」
「なんかごそごそしてた」と言っている間に降りてきたようだ。「ところで、あの露出の大きい格好はおかんの仕業だろ?」
おかんはニヤリと笑う。
「せやで、新婚若奥様風や」
「な ん だ そ れ は ?」思わず発音がスタッカート気味になる。「お前は20年前にあんな格好で家の中をうろうろしていたのか?」
「いんや、もっとラフなカッコやったで。エプロンは着てたけどな」頬を紅潮させ、遠い目をして破廉恥なことを言いやがる。このお茶目なおばはんに軽く説教してやろうかと思ったが、美佳が好奇心を瞳いっぱいに湛えて見つめているので、怒れる矛先をそっと冷徹な沼地に沈めた。だいたい口げんかでこのおばはんに勝てた試しがない。
「もういい、わかった、好きにしろ」
「エプロンがどうかしたんですか?」そういう美佳の服装は、さっきまでとあまり変わっていない。水色のデニムのホットパンツに、サポーターのようなスポブラとタンクトップだ。へそが見えているぞ。女の子でも腹筋の形がわかることがあるんだな。
「エプロンがファッションとしてどうかと」「違う、スリッパとお揃いでよく似合っているねと話していたんだ」このおばはんは何を言い出すのかわかったもんじゃない。

「ミトンも同じデザインで買っていただいたんですよ」無邪気に喜んでいる。君、おかんに遊ばれているんだよ…
「そっかあ、よかったなあ、夕食の時に披露してもらえるのかな」努めて爽やかな応対をする。
「えらい爽やかやな」
「うるさい、そろそろ行くぞ」
美佳がランチ籠に弁当を詰め込んでいる。俺は水筒にそば茶を入れることにした。おかんはいつもより軽い足取りで玄関に向かった。
ガレージのシャッターが上がる音が聞こえる。車を出すのか?歩いてもすぐなのに。水筒の蓋を閉めながら、火元のチェックをする。ガスコンロも普段より綺麗に磨き上げられている。帰ってから五徳の焦げ付きを剥がし落としてあげないとならんなあ、おかんの腕力と根気では無理だ。
美佳はランチ籠を体の前に下げて、俺を待っている。
「行こう、おかんが車を出しているみたいだ」
「はい」

スリッパは調理中だけなのかな。廊下を四つの裸足の足音が玄関に進んでいく。サンダルを履いて表に出ると、おかんがパジェロで待っていた。
「軽じゃないの?というか蔵地さんのとこなら歩いていった方が早いだろ」助手席の窓から問いかける。全く化粧気がないから遠くへは行かないだろう。
「プールまで三人送ったげるで」
「亜紀が行くとは決まってないぞ」後ドアを開けて美佳を乗せる。
「絶対行くから大丈夫」なんだその自信は。着座してシートベルトを締める。後を見ると、美佳はランチ籠を膝の上に置いて期待に満ちた目で前方を見ている。自動車に乗るのがそんなに楽しいのか。
「美佳ちゃん、シートベルト締めて」短い距離だけど締めてもらおう。
「はい、どうやるんですか?」無理もない、オヤジの主義で後部座席も4点シートベルトなのだ。ベルトの留め具を左右の手で持って見比べていたが、すぐにパチンと正しくロックした。
「それでいいよ」そう言うと、にっこりと微笑んだ。虫歯はないって話だったけど、歯並びもいいんだな。「メカの扱いが上手だね」PCデジカメに慣れるのも早かった。
「そうですか?ありがとうございます」褒められてうれしそうだ。

おかんは車庫入れが苦手だ。オヤジがあきれて後方カメラを設置してしまうくらいに時間がかかる。俺が代わりにやったほうが早いくらいだが、公の場なので慎んでおく。何度も切り返してようやく真っ直ぐ停められた。
小さな駐車場にパジェロが窮屈そうだ。休診の日なのでうちの車しか停まっていないが、普段ならドアを開けるときに気を遣うところだ。

すでに短くなってきた三人の影がアスファルトに強いコントラストで張り付く。おかんが古風な鉄枠の扉を引くといつものように、カラーンとベルが鈍い音で鳴った。待合室は電灯が消され、いかにも休診中という雰囲気である。
「いらっしゃーい、正ちゃん、鍵かっといて」受付窓の奥の方から亜紀の声が聞こえた。今日は客人扱いだから文句は言わないでおこう。「1診入ってー」お父さんの方か。
そのままおかんが先頭を切って1診に入る。俺は特に用事がないのでドアの隣にある長いすに座ろうとしたら、美佳がTシャツの袖を引っ張った。
「一緒に来てくださいよぅ」不安そうな目で見つめられた。
「シャツ脱いだりするけど俺がいてもいいのか?」見たいと思わないわけでもないし。
「あたしなら平気です」そこまで言われたらしかたない。

2診よりやや広い1診には小さなテーブルが出されていた。診察はお母さんの方だった。いつもの同じ白衣を着ている。ナースのコスプレをした亜紀がA4の封筒をいくつか持って隣に突っ立っている。今日の髪型は適当にポニーテールにしているだけだ。営業用ではないということか。
亜紀は母親似だ。二人ともリスのような小さな丸い顔でちょっとだけつり上がった目がバランス良く配置されている。
「いらっしゃい、美佳ちゃん。体調は悪くなさそうね」
「はい、すごく元気です」
亜紀のお母さんは微笑みながら、亜紀から一枚の封筒を受け取った。
「血液検査の結果は異常なしよ。必要な抗体は全部揃っていたわ。これだけ綺麗に揃っているから日本生まれね。日本でしか予防接種していない抗体がいくつか検出されているし」へー、便利なものだ。
「そうなんですか、よかった!」今までで一番うれしそうだ。
「言葉のなまりもないし、きっと関東生まれね。身長と体重をはかるから、ここに立って」体重も同時にはかれる身長計の横に亜紀が移動する。

「身長は149cm、体重は39kg、体脂肪率は14%。生理はまだね?」そんなんでわかるものなのか?
「はい、まだです」測定器から降りて丸椅子に座る。
14%って俺と同じくらいだ。
「じゃあこれで保健とか福祉関連で必要な手続きは全部終わり」
カルテを揃えて、亜紀に渡す。亜紀はてきぱきと動いて、カルテを奥の本棚にしまった。立派に働いてるなあ。俺ができるのは風呂掃除くらいだ。

2診側から亜紀のお父さんが白衣姿で現れた。
「入学の書類は全部揃ったよ」亜紀から少し厚めの封筒を受け取り、テーブルに中身を広げる。
「これが戸籍謄本で、これが住民票、生徒証は明日学校で受け取ってね」戸籍?
「何から何までお手数おかけします」おかんが深く頭を下げる。「これで正式に美佳ちゃんはうちの子や」え?
「え?そうなんですか?本当ですか?」驚きとうれしさが混ざった表情で狭い診察室にいる面々の顔を見渡す。俺もびっくりだよ。
「なあ、こういうことって裁判所とか入管とか関係しているんじゃないの?」住民票はともかく戸籍は市役所だけでは勝手にできないとどっかで聞いたぞ。
「人間関係ってのはいろんなことができるもんなんやで」おかんが得意そうに言う。
「楠の祖父さんだな」オヤジが不在だからそんな政治力を持っているのは祖父さんだけだ。
「そういうことや」楽しそうだな、おかん。

亜紀が口をぱくぱくさせている。なんだ?こいつ。
「じゃあ、なに?兄妹になるの?ずっと一緒に住むの?」そりゃそうだろ。福祉施設に行かないんだから。なにをうろたえているんだ?
「うれしいです!えっと、お母さんって呼んでいいんですよね!?」潤んだ目でおかんを見つめる。
「そうやで、この歳で娘ができるとは思わなかったわあ」戸籍謄本を眺めながらうっとりとつぶやく。
「正一さんはどうしましょう?お兄ちゃんがいいですか?」お兄ちゃん・お兄ちゃん・お兄ちゃん・・・

「え。あ、そうだな」なぜか激しく動揺してしまう。おかしいな、昔、亜紀にもお兄ちゃんと呼ばれていた時期があったはずなのに、従兄弟のチビたちにも同じように呼ばれているのに、美佳に呼ばれると背筋がぞくぞくしてくるというか…
「ちょっと子供っぽいですか、じゃあ、兄さんって呼ばせていただきます!」固まった俺の表情を見て美佳が方針転換してしまった。いや、それでいいんだ。たぶん。今更、お兄ちゃんの方がいいなんて言えるわけがない。ニヤニヤしている大人たちをさらに喜ばせるだけだ。
「うん、それでいいよ」さて、俺は何と呼んだらいい?美佳ちゃんがいいか、美佳でいいか。
「いいなあ…」亜紀がぽつりとつぶやいた。何がいいんだ?「あたしも兄弟欲しかったな。もう無理?空から降ってきたらいいのに」

「無理でもないが、赤ん坊から始まるんだぞ、兄弟と言うより親子みたいになるぞ」亜紀のお父さんがまじめな顔で答える。無理じゃないのか…オヤジならどう言うだろうか。
「あたしも赤ちゃん、欲しいです」美佳が無邪気で微妙な発言をする。おかん、空気が凍り付く前に素早くフォローしてくれ、おかんの仕事だ。
「あたしは無理やから、自分でなんとかしてや」おかん、フォローになってねえよ。収拾がつかなくなりそうだ。
「そろそろお暇しないか?お休みの日にお邪魔しちゃ悪いだろ」あれ?なんか用事があったような気がしたけど、なんだっけ?
「あ、亜紀さん、プール行きませんか?水着持ってきたんです!」それだ。プールと聞いて亜紀が俺と美佳の顔をちらちらと見比べている。
「いいけど、三人で?」ちょっと伏し目がちに俺の顔を凝視する。なんだ?俺に訊いているのか?
「今から誰か誘うのもめんどくさいしな」とは言え、美佳と二人でスクール水着でプールに行くのも照れくさい。
「お弁当も作ってきたんですよ、三人分」こう言われては嫌とは言えなくなるよなあ。

亜紀は再び俺と美佳を交互に見比べている。なんか俺たちが悪いことを企んでいるかのような目つきだ。失礼だな。
「行くわよ、市営プールでしょ、今日、暑くなりそうだし」ちょっと声が震えているぞ?
「ガッコのプールは今日いっぱいメンテ中だから市営に行くしかないな。うちのおかんが送ってくれるってさ」帰りは歩きになるけど、親を呼びつけてもいいだろう。
「じゃあ、今日の診察は終了。おつかれさま、明日から学校楽しんでね、美佳ちゃん」そっか、一応診察だったんだ。今更ながら診察室の薬品臭に気がついた。亜紀からこの匂いがしたことはないんだよな。
「はい、ありがとうございます」

「用意してくるから待合室で待ってて」診察室を出る時、亜紀はなぜか楽しそうにそう言って奥に去っていった。やっぱりプール行きたいんだろ。その様子を見て、大人達は面白くて仕方がないようだ。あんたらから見たら子供の遊びかも知れないけど、俺たちはこれが目一杯の人生なんだからな。
待合いのソファに座ってぼんやりと室内のポスターなどを見渡していると、
「ねえ、兄さん、」あ、俺のことか。
「ん?」
「亜紀さんってかわいいですね」お前、昨日もそんなこと言わなかったか?
「そうか?そうかもな、でも学校ではモテないみたいだぞ」と言うと、おかんが「ぷっ」と吹き出した。何がおかしいんだ?
「それはきっとモテたくないからじゃないですか?」
「なんだそりゃ?」

「お待たせー」亜紀が奥の住居側から現れた。髪の毛はそのまんまの適当なポニーテールだが、白のプリントTシャツとミニスカートに着替えている。あー、確かにかわいいかもしれんな。背中に背負った大荷物はなんだ?
「亜紀は携帯電話持っていたっけ?」一応訊いてみる。
「ケータイ?ないよ、いらないもん」そうだよな。「帰りの心配だったら、公衆電話使えばいいじゃん」
「最近、公衆電話、少ないんだよ」
入り口のベルが鈍い音を立てる。亜紀が年代物の鍵をかける。これも歴史を感じさせる音がした。先祖は小石川養生所に勤めていたと言うが、建屋が江戸時代から続いているわけではないだろう。
小さな駐車スペースで待っていたパジェロのドアを開けると、案の定、すごい熱気におそわれた。いつの間にか強い日の光が車内に差し込んでいる。
「おかん、窓全開にしてくれ」「今エンジンかけるから、ちょい待ち」エンジンがかからないと窓も開かないなんて不便すぎる。パワーウィンドなんて運転席だけで十分だ。
着座すると、後部座席でおしゃべりが始まった。特に興味はないので聞き流していたが、美佳が亜紀の長い髪を三つ編みにし始めた。髪の毛の9割が外に出るから、スイムキャップが無意味なんだよな。

市営プールには駐車場がないので入り口のところでおろしてもらう。
「帰り、しんどかったら電話で呼びつけてもかまへんで」「ありがとう。2kmくらい歩くよ」
「せやな、若者は歩け」
場内から子供たちの歓声が聞こえる。60cmプールは芋洗い状態だろうな。
「じゃあ、シャワーのところで待ち合わせね。行こ、美佳ちゃん」「はい、兄さん、後でね」まだちょっと、兄さんと呼ばれると照れくさいな。
カビくさい更衣室でちびっこたちに囲まれながら、手早く学校指定水着に着替える。周りの小学生も学校水着ばかりだな。換気扇が回ってはいるが蒸し暑い上に薄暗いから気分が滅入ってくる。
逃げるように更衣室から出て、シャワー前で女たちを待つ。女というのは風呂も長いものだが、そもそも着替えに時間がかかるのだろう。更衣室の出口がシャワーになっているので、プールに入る前は必ずシャワーを浴びることになっているのだが、小学生たちは駆け抜けてしまうのでほとんど効果はないだろう。遊園地の待ち行列みたいにくねくねの手すりをつけてやって、半強制的に浴びる時間を長くしてやったらどうだろう。
真夏よりはちょっと涼しい風が塩素の臭いを運んでくる。時々小さな水しぶきが体に当たり、すぐに乾いて消える。
すでに飽和状態に近くなった60cmプールを眺めていると、亜紀の声がかかった。
「お待たせー。ってなんで正ちゃんもスクール水着なのよ」「なんでお前もスクール水着なんだよ」「おそろいですね!」学校の体育授業のようになってしまった。
「女の子はこれが一番魅力的だからいいのよ」亜紀が得意そうに言う。
「お母さんも同じようなこと言ってましたよ」言ってたなあ。
「まあ、いいや、水着が泳ぐわけじゃないからな。シャワー浴びよう」
「そんなこと言うから、面白くない奴って言われるのよ、あんた」あきれたような顔をして亜紀が言う。
「そんなふうに言われてるのか、知らんかった」別にかまわんけど。
「面白くないことなんてないですよー」美佳がシャワー道に入ろうとする。
「先に帽子かぶってから浴びるんだぞ」
「排水口が詰まるからでしょ」亜紀が片手で長い髪の毛の根元だけを、見た目だけスイムキャップに押し込もうとするのを、美佳が手伝っている。左腕に抱えてるのはなんだ?
「わかっているんならいいよ」自分が先頭に立ってシャワー道を通る。小学生で混雑している60cmを素通りして120cmプールに向かう。こっちは中学生以上だ。しかし、この二人は小学生に見られかねないぞ。あ、スクール水着だから文句は言われないか。
「何持ってきたんだ?」亜紀の左腕にあるビニール製の何かを指さして訊く。
「浮き輪」それ、でかくないか?
「ポンプは?」
「正ちゃんがふくらますからいらないじゃん」だと思った。「だってこっちのプール、足は付くけどおぼれそうなんだもん」
「美佳はどうすんだよ」二人とも同じくらいの身長だ。
「これ、穴が二つあるんですよー」二人で広げて見せる。これをふくらますのかよ。
「それで?」一応訊いてみる。
「正ちゃんが引っぱるの」やっぱりそうなるのか。
「お願いしますね♪」屈託のない笑顔で美佳が微笑む。ものすごく楽しみにしているなあ。
「わかったよ、任せな」亜紀から浮き輪を受け取って、検分する。確かに中学生くらいがすっぽり入る大きさだな。ふくらましながら亜紀と美佳の体格を改めて見てみると、本当に同じような骨格と体幅だ。若干、亜紀の方がふっくらしているかな。美佳は体脂肪率が俺と同じだけに筋肉質だ。

浮き輪の栓を閉めて、漏れがないか叩いてみる。大丈夫のようだ。
「お疲れ様、正ちゃん。でもこれからが本番だからね」はいはい。
「お前ら、凸凹が少ないんだからすっぽ抜けて溺れるなよ」憎まれ口を叩いて、先にプールに降りる。
「兄さんって頼まれごとは何でも引き受けるんですね」美佳がちゃんとストレッチをしながらそんなことを言う。そうか?それを見て亜紀もストレッチを始めた。
「女と口で言い争っても時間の無駄だからな」正直に言う。
「あー、なんか女性差別発言だと思わない?美佳ちゃん」亜紀が美佳の顔を見て同意を求める。短い間に仲良くなったもんだな。
「そうですか?レディ扱いされているとも考えられますよ」
プールの端に浮き輪を寄せて「そこから穴に入れるか?」
「じゃあ、あたしから」亜紀が少々飛び込み気味にスポンと穴に収まる。
続いて美佳も同じように飛び込む。
「よーし、泳げー正ちゃんモーターだー♪」「兄さんがんばってー♪」

120cmプールは100m四方深さ120cm~150cmのだた広いだけのプールだ。60cmプールは深さが60~90cmで一応滑り台などのギミックは装備されているが、120cmにはなんにもない。一辺が100mなので競技用にも使いづらい大きさだ。中学生以上と大人のカップルがデートに使うくらいか。時々、ロープで区切られたコースに競泳をする人が泳いでいる。
今日のこの時刻だからまだすいているが、すぐにこちらも混んでくるだろう。午前中にたくさん泳いでおきたいが、女二人を引っ張って泳ぐのはトレーニングになるのか?
「兄さーん、大丈夫ですかー?」「正ちゃんならこのままハワイまで連れてってくれるよー」「すごい!ハワイ行ってみたいです!」お前ら・・・・・
「平気だよ、お前らもバタ足くらいやれよー」「はーい」「はーい」
眼鏡の形をした浮き輪を、横向きに牽引しながら背面泳ぎにしてみる。空が青い。雲一つ無いとは言わないが、澄み渡って空が高い。秋の空みたいだな。
親父は台湾で何をしているのか。おかんに電話くらいしろよ。
「あははー正ちゃんすごーい」「兄さんパワフルー」「ありがと」
女の子の声援ってのは力が出るな。ちゃぽん、潜水してみる。水中は空いている気がするな。すいすいと潜水でレディ達を牽引する。残念ながら何を話をしているかは聞こえないが、気にしない。
3分くらいは。
あ、ちょっと厳しいな、足がつかなくなってきた。再び背泳ぎになって空を眺める。亜紀と美佳は相変わらずおしゃべりをしている。何をそんなに話すことがあるのか。

泳ぎ疲れたら浮き輪に掴まって休む。足の付かない場所では便利だ。
だんだんと120cmプールも混んできた。プールサイドも広いのだが、遊園地のプールのように売店が並んではいない。いかにも市営といった風情の軽食店があるだけだ。ベンチは十分にあるので、場所取りで困ることはないが、弁当を広げるスペースが確保できないと嫌だな。
「少し早いけど、昼ご飯にしないか?座れなくなったら嫌だし」
「さんせーい」「兄さん、岸までがんばってー」

「お弁当、取ってきますね」美佳がロッカーへ走り出す。
「場所とっとくね、飲み物、何がいい?」「えっと、冷たいお茶でお願いします」
小走りで去っていく白い脚に目を奪われていると、不覚にも亜紀の肘を脇に食らってしまった。
「何見とれてんのよ、飲み物買いに行くわよ」俺がかついでいた浮き輪のロープを引っぱられる。

「なあ、亜紀、メールでも頼んだけど、美佳のことさりげなく監視してくれ」売店の店員から緑茶缶を3本受け取る亜紀に小声で伝える。さすがに浮き輪を担いでいる俺に飲み物まで持たせる気はないようだ。亜紀に睨まれる。
「あんた考え過ぎじゃない?美佳ちゃん、すごくいい子よ、あんたの妹よ」怒り出した亜紀に引きずられて、空いているベンチに連れて行かれる。大きな三つ編みのポニーテールがバシバシと体に当たる。
「そうだな、お前がそう言うんなら間違いない。仲良くしてやってな」今までの経験から亜紀がこう言うときは心配することはない。
「わかればいいのよ、お兄さん。あ、美佳ちゃん、こっちー」シャワー道の前でランチかごを頭の上に乗せて、ちびっこたちの流れに飲まれている美佳に亜紀が手を振る。広いところでも亜紀の声はよく通る。電話では多少うるさく聞こえることがあるが。

「あ、カツサンドだ、正ちゃんあげる」亜紀からメンチカツサンドを差し出される。丁寧に一つずつラップでくるまれている。亜紀にしても高カロリーを控えなくてはならないような体型とも思えないが。
「あいよ。それにしてもよくこれだけいろいろ用意している時間があったな」美佳の食欲は毎度のごとく旺盛だ。
「兄さんを起こす30分くらい前から作り始めていたんですよ。メンチカツはお母さんが冷凍していた分ですけど」挽肉が安いときにごっそり積み上げていたな。

左右を美佳と亜紀にはさまれて食事をしていると、聞き覚えのある甲高い声で呼ばれた。
「由比君じゃん。モテモテじゃん!」「なになに?修羅場?」クラスの坂田と神崎だ、うるさい奴らに見つかった。ちょっとがっしりとして背が高い坂田と、小柄な神崎が目を輝かせて近寄ってきた。いっちょ前に派手なビキニなんか着ていやがる。バレー部の坂田はそれなりにフィットしているが、帰宅部の神崎は若干あまり気味だ。
「何が修羅場だ、子守だよ」
子守と聞いて亜紀が口をとがらせる。
「レディをつかまえて子守はないでしょ!だいたい、正ちゃんが誘ったんじゃない」
「そうだっけ?」
「そうですよ、兄さん」缶茶を飲みながらやりとりを見守っていた美佳に突っ込まれる。すぐに神崎が食いついた。
「由比君、妹いたっけ?」
「ちょっと前にできたんだよ」本当のことを言った方が面倒なことにならんだろう。
「美佳です、今日から正一兄さんの妹になりました」ちょっと恥ずかしそうにしてぺこりと頭を下げる。
「なにそれ、なにそれ、義理の妹ってやつ?」坂田の声でかいよ。
「生き別れの妹が見つかったとか?」神崎はちょっとだけ想像力が豊かだな。胸は貧しいけど。
「記憶喪失で迷子になってうちの玄関先で行き倒れになっていたとこを保護したら、おかんと気があったから当座の間家族になってもらったんだ、以上」この説明をしておけば、あとは勝手に学校で拡散してくれるだろう。この二人に任せておけばいちいち答えなくてもすむ。
「へー!」「へええ!マンガみたい!いいじゃん、いいじゃん、結婚できるじゃん!」お前らの頭の中はマンガで構成されてるのか。
「正ちゃん、カツサンド」無愛想な声とともに目の前にカツサンドを差し出される。
「お、おう、ありがと」
その亜紀を見て坂田がニヤニヤ笑う、何が面白いんだ?
「お邪魔しちゃったみたいねー」「浮き輪がんばってねー」ようやく立ち去ってくれた。

親を呼びつけて迎えに来てもらうというはかっこ悪いと、全会一致したので歩いて帰ることにした。
午後からは出会う知り合い全員が「妹ができたんだって?」「どっちが妹?」「それなんてギャルゲ?」とお約束のセリフを浴びせかけてくれるので、退屈することはなかった。
空気が抜けきらない大きな浮き輪を小脇に抱えて、二人の後から歩調を合わせて歩く。飽きずに話し続けることがあるものだな。
空を見上げると、西から南にかけて雲がかかってきている。梅雨が戻ってくるのか。今日プールに行っておいてよかった。
美佳にも自転車を買ってもらおう。地下鉄が充実している都会と違って、ここいら辺では機動力がないとなんにもできない。
歩道橋の歩道橋の階段の前で亜紀と別れる。浮き輪を渡す。
「じゃあね、美佳ちゃん、お弁当ごちそうさま」「明日からよろしくお願いします」「またな」
歩道橋の上から亜紀が家に入るところが見えた。乾ききっていない長い髪の毛が揺れて、こちらを振り向く。美佳が手を振ると亜紀も振ってきた。
「帰ったら夕飯の準備しなくちゃ。兄さんは先にお風呂の用意をお願いしますね」
一日ですごく日焼けしたな。昨日までは一度も外に出たことがないくらいに真っ白だったのに。
「うん、水着を洗濯機に入れるの忘れないでな、すぐにプール授業が始まるから」
「はい。ね、兄さん、あの浮き輪、兄さんと二人で使いたくて買ったんですよ」
「そんなこと亜紀が言ったのか?」
「言わなくても、わかります」

充実した夕食の後、教科書や上靴に名前を書く行事が始まったので、風呂の用意をしてから自室に上がってPCに向かう。
親父からのメールはなし。あ、楠の爺さんが珍しくオンラインだ。IP電話をかけてみるか。
呼び出し音が10回以上続く。きっと、どこで音が鳴っているのか探しているんだろう。画面右下のポップアップに気づかないんだな。あとでリモートデスクトップでポップアップに気が付くような呼び出し音に変えておこう。
「…だ、これか?もしもし?楠です」爺さん、マイクに近づきすぎだ、顔がカメラから半分以上はずれているよ。少し寂しくなった白髪頭だけが画面の下半分に映っている。
「正一です、こんばんは、お元気ですか?」
「おお、正一か、元気やで、葡萄は食ったか?」やっとカメラ目線が来た。本当に元気そうだ。あの母親の父親らしい茶目っ気のある関西人フェイスが、俺の顔を見てほころぶ。
「ありがとう、おいしかったよ。ところで、今日突然俺に妹ができたんだが、何か聞いてないか?」すぐに用件を切り出そう。
爺さんの視線が一瞬泳いだ。何か迷ったな。
「瑠璃子から相談されたよ」それはわかってる。
「うん、それで」
「知り合いに休日出勤してもろた」さすがは元陸軍大佐だ。
「やっぱりな、ありがとう、手際がよすぎてちょっとびっくりしたけど、本人も喜んでいるよ」
それを聞いて千早赤阪に遊びに行ったときによく見せる、軍人らしくない笑顔で微笑む。
「そうか、そうか、よかったなあ、それで美佳ちゃんはおらんのか?」
「下でおかんと教科書に名前を入れてるよ、呼んでこようか?」
「せやなあ、今でなくてもええわ、楽しみはとっとこう」
「遠慮しなくてもいいんだけど。そうだ、親父は台湾か?」知ってるに違いない。爺さんの顔が少し軍人らしくなった。
「せや、南部で共産ゲリラの相手をしとるはずや。いや、まだ船の中やな」空路じゃないのか。ということは養子の話も自動的に伝わっているな。それにしても母親だけで養子を受け入れることなんてできるのか?現実として養子になってしまっているのだからどうでもいいけど。
「機動部隊に同行してるのか?揚陸?」
「うむ、陸路が危ないらしくてな、海側から空挺降下するんやないかな」空挺降下だと小火器しか持ち込めないぞ。上空から地ならししてから降りるんだろうな。
「海岸に地雷でも埋められてるのか?」
「情けない話やけどな、台南方面を絶対に信用できるかちゅうと、そうも言い切れんわけや、わかるな?」顔色が暗くなった。
「わかる」裏切られる可能性があるんだ、自国の軍隊に。「小規模なゲリラ戦だけじゃなくて、かなり本格的な戦闘があるんだな」
「クラークとスービックに応援を頼むかもしれん、これは秘密やで」うちは親父が定期的に盗聴器の探知をしているから大丈夫とは思うけど、爺さんの家は俺たちが遊びに行ったときだけだからなあ。たいした情報でもないからいいか。
「それはおおごとだな、フィリピンからムスリムゲリラが侵入してるから責任を感じてるのかな」
「アブ・サヤフはもう片づく、中国赤軍が拡大し続けてるんじゃよ」
(ふーん)ムスリムは指導者が死んだとか言っていたな。おそらく米軍が暗殺したんだろう。
「共産主義の何がいいんだろうね」率直な疑問だ。
「生きていくだけなら一番単純な方法やからな」そんなもんか。
「中ソには戦争をする理由がないと思うんだけど、なんでわざわざ攻めてくるんだろう。メリットないよね」資源もあるし、経済的に破綻しているわけでもないのに、なぜ国際的合意に基づく日本領である台湾や統一朝鮮に侵攻してくるのか。形式的には『日米帝国主義の掃討』とか『一つの中国』と叫んでいるが日米韓と武力衝突するほどの動機ではないだろう。フィリピンの米軍基地まで本格稼働すると全面戦争になる。陸地の狭い日本は海が生命線になるから周辺海域の経済的権利を握っておきたいという理由がある。国家予算の10%を最新鋭正規空母の維持に投じているのは伊達じゃない。
「さてなあ、メンツの問題やないのか?」
「メンツで戦争に行かされる国民はたまったもんじゃないな」親父が戦死することはないだろうが。
階下から美佳の声が聞こえる。
「ふーん、ありがとう、勉強になったよ。風呂の順番が来たみたいだ、またね、蕎麦もおいしかったよ」
「そうか、そうか、また送るさかいな」楠の爺さんがこんなにのんきにしているなら、親父のことは心配する必要がないな。

居間に降りると美佳が一人でテレビを見ていた。台所ではおかんがリズミカルな音を立てながら米を研いでいる。
テレビの報道番組は台湾情勢を流していた。青い海にたくましい数隻の軍艦が波を搔ききっている。日米の合同演習だ。ずいぶんと熱心に見ているな。
「おもしろいか?」
後ろから声をかけると、一瞬考えてから振り向く。ふわりと風呂上がりの香りが届いたような気がした。
「おもしろいというか、不思議ですね」
「不思議?」
確かに不思議だ。
「美佳ちゃんもそう思うか。なんで中国は戦争をふっかけてくると思う?」
小首をかしげる。生乾きの黒髪がぱさりと揺れる。
「うーん、生き残るため、じゃないでしょうか。あ、でも戦争すると死んじゃう人もいますね、家族のためかな。やっぱり不思議ですね」
家族のため、か。
「あのへんのどこかに親父がいるんだ。近いうちに台湾南部に上陸する。親父は職業軍人だから家族のために戦うんだ。でも赤軍の大部分は徴兵された人だ、命令されて戦うんだ」
画面には空母嶺鶴を飛び立つF-3Nが映っている。黒いステルス塗装で覆われた力強い機体が南海の太陽を鈍く反射している。空母に乗っていると言うことはそれなりに実績があるパイロットなのだろうが、ノーズアートも何もない無愛想な機体だ。最近の兵器はステルス性ばかり優先されてどれもこれも同じようなデザインで面白みがない。嶺鶴の喫水線を縁取る白いレースは糸のように細く、艦の大きさと海面の静けさを語る。高度が下がるとヘリの風圧で海面が沸き立った。機上から魚を射撃できそうなくらい透明感のある藍色の海面下には、米軍の原潜が息をひそめているだろう。ヘリが嶺鶴にぐっと近づく。画面から船体がはみ出して、着艦準備を始めた若手の海軍兵の動きを見分けられるようになった。レインウェアを着ている兵が二人ほど見えるから、雨上がりだな。コンパクトなレーダーマストがちらりと映る。ヘリの影が甲板に落ちた、オスプレイだ、すごいものを持ち出したな、これなら空挺降下も成功率が上がるかもしれん。米軍も高価なオスプレイをゴミにしたくはないだろう。ここで映像は終わり、スタジオに戻った。演習シーンは放送してくれないか。
「命令されて殺し合いをするのは嫌ですね。考えるのをやめちゃったんでしょうか」
クールだな。
「生まれたときからそういう教育しかされなかったら、そうなるんかもね。親父も俺も同じようなもんだよ」
「お父さんは、あの軍艦に乗ってるんですか?」
画面を見つめる美佳の瞳に再び嶺鶴が映る。
「あれに乗っている確率は高いね。ヘリコプターからパラシュートかロープで上陸するらしいから」
俺の目を見て沈黙。それがどういうシチュエーションなのか考えているな。
「それって危なくないですか?」
意味するところがわかったらしい。
「危ないよ、戦争のいろんな作戦の中でもとびっきりに危ない。地上からの支援無しに、小さな武器だけ持って敵の後方に降りるからね。使えるのはヘリの機銃とミサイルくらいだ。それもあまり派手にやるとヘリが落とされるから、当てにならない」
「…」
なんだ?この沈黙は。
「…兄さんってそういう話になると饒舌ですね」
(うっ)
「他に取り柄がないからな」
美佳はニヤっとシニカルな笑いを浮かべて、
「女の子に優しいのはすごい取り柄だと思いますよ」こんな笑い方もするんだな。
「俺が女に優しいのは、女を差別しているからだよ」

風呂から上がると居間はフットライトだけになっていた。
美佳は寝たのか。
縁側から庭に降りるが、おかんは晩酌をしていない。芝生が冷たくて気持ちがいい。どこかで夏虫が恋の歌をささやいている。湿り気を帯びた風が脚を抜けていく。多少蚊に食われるのは仕方ない。いつものようにストレッチをして站套から始める。小架が終わるのはいつのことだろう。
星空がきれいだ。今日の蠍座は冷ややかに赤い目で俺を見下ろしている。いや、あれは尻尾の毒針だったか?遠く南の空に鉛色の雲がゆっくりと流れている。あの雲のずっと向こうで

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(だらだらと執筆中)
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