第一章 見えない明日
焦点の合わない目がうつろう。自分と目が合う。深く澄んだ瞳に自分の顔が映っている。視線をとらえたまま手にしたコップをゆっくりと少女の両手に握らせる。
「水、飲め」
(冷たい指先だなー)滅多なことでは女の子の手を握ることなどはないので、少し緊張する。少女はコップのポカリに視線を落とし、しばらく見つめてから再び自分の目を見た。
「水、water、drink」
(用心深いのかな?)少女の手を包んだまま、コップを自分の口に運びごくりと一口飲んでみせると、強い力でコップを引き寄せ一気に飲み始めた。空になったコップにおかわりを注ぎ込む。
「えーと、初めまして、How do you do?」
二杯目を飲み干した少女が一瞬、考え込んだ表情になり、あわてたように自分の顔を見る。
「あ、ごめんなさい、初めまして、お水、ありがとう」コップを受け取る。
(変声期前かな、女の子にも変声期ってあったっけ?)母が持っていた皿からおにぎりを二つ取り、一つを少女の前に差し出す。じっと見つめたまま手に取ろうとはしない。もう一つのおにぎりを食べてみせると、自分の前に出された分を取り、ほおばった。
「まだあるからゆっくり食べな。おかん、麦茶を持ってきて」
「はいよ、面倒見がいいねえ」
いちいち一言多いおばはんだ。
麦茶と残りのおにぎりをみるみるうちに平らげる。いい食いっぷりだな。何歳くらいだろう、12~13くらいかな。クラスメイトや下級生の体格を思い浮かべて想像してみる。
「君、名前はなんていうの?俺は正一」知ってるはずだよな。
問われて少女は少し驚いたような表情を浮かべ、何かを探すように視線をさまよわせた。
「ごめんなさい、ミカです」謝る必要はないけど。名前を聞かれて名前を答えるのは正しい答え方だ。
「名字は?」
母の顔を見るが、首を振っている。自分の知り合いにミカはいないはずだ。やはりオヤジの関係者か。少女は困ったような顔をした。
「みょうじ、ですか?」なんだ?名字を聞かれて困るのか?
「うん、family name、うちは由比」
少女はうつむいて何かを考えているようだ。髪の毛がまだ湿っているな。女の子の髪って細いんだ。
「ごめんなさい」また謝る。「わからないんです」そんな、俺の名前を知っているのに自分の名字がわからないのか。記憶喪失ってやつか?マンガじゃあるまいし。でも嘘をついているようには見えない。
息子の活躍を見守っていた母親が口を開いた「どこか痛いところとかない?」怪我はしていないようだ。記憶喪失なら頭をぶつけているかもしれない、とマンガや小説の知識を動員して推定してみる。
「いえ、どこも痛くありません。大丈夫です」服が雨に濡れているだけで、裸足の足の裏もきれいだったからな。風呂場から湯張りが完了したブザーが聞こえてきた。
「おかん、この子をお風呂に入れてやってくれ、俺は警察と病院に電話しておく」その言葉を聞いて少女がびくりと反応した。
「嫌か?嫌ならやめておくぞ」
ふるふると首を振り「いえ、大丈夫です、ごめんなさい、お願いします」家出じゃなさそうだな。行方不明者とか?
おかんがなぜかうれしそうな顔をしている「立てる?」あとは女にまかせておくか。
大きめのパジャマに着られた少女を母がいそいそと風呂場に連れて行く。後ろ姿をしばらく観察してから二階の自室に上がる。PCの前に座りヘッドセットを装着してIP電話で陸軍の代表アドレスを呼び出す。
「はい、東部方面隊です」歯切れの良い女性の声。
「すいません、家族の者ですが即応の由比をお願いします」
「おつなぎします、しばらくお待ちください」
保留メロディが流れる。数十秒後、IP電話のアイコンがミーアキャットに変わった、そうだった今日は金曜日だった。アイコンの下には「Yukiya」と出ている。
「もしもし、正一です」
数秒間の沈黙。軍のファイアウォールが会話を解析している。
「どうした?」
「オヤジ、ミカという名前の12~3歳の女の子に心当たりはないか?」
沈黙。
「その年代のミカは知らないな」
違う年代なら知っているのかよ。
「わかった、ありがとう、仕事中ごめん」それならそれで、もうオヤジに用はない。回線を切ろうとしたら、付け加えの音声が届いた。
「ちょっと待て、今日からしばらく出張になる。いつ帰れるかわからないから母さんに伝えておいてくれ」よくあることだ。そしてだいたい疲れ切るか、怪我だらけになって帰ってくる。
「了解、気をつけてな」
回線を切る。さてと、オヤジの関係者じゃないとすると他の親戚筋かな。あまり当てにはならんけど、警察をあたってみるか。階下に降りて脱衣籠からミカが着ていたツナギを取り出し、細部を改める。タグがない。F1のピットクルーの作業着みたいなデザインだ。4つもついているポケットを探ってみるが、何も入っていない。下着は…。ツナギの隣にあった、一番小さな布片をおそるおそる確かめてみるが、名前や製造メーカーを示すようなものは何もなかった。
あきらめて受話器を取り、近くの警察署の番号を回す。XXX-1234 カタカタとパルス音を鳴らしながらダイヤルが回転する。1回の呼び出し音のあと受付が出た。
「お待たせしました、富潟南署です」
(オヤジだったらどう話すか)を頭の中でシミュレーションする。
「すいません、家の前で迷子の女の子を保護したんですけど」
「では生活課におつなぎします、少々お待ち願えますか」
短い保留音のあとに女性に代わった。
「生活課です」
「すいません、高崎5丁目の由比です。家の前で迷子の女の子を保護したんですけど」
「その子の名前とか年齢はわかりますか?」
「名前はミカ、名字はわかりません、年齢は12~3歳くらいです」
「本人は元気ですか?怪我とかしていませんか?」
「おなかをすかせていたくらいで、怪我はしていません」
かすかにキーボードを叩く音がする。捜索願を調べているのかな。
「名字はなぜわからないのですか?」
「覚えていないようです、ショックか何かで一時的な記憶喪失みたいなものでしょうか」
「ミカという名前での捜索願は出ていません」じゃあ12~3歳なら出ているのか。「他に特徴はありませんか?」
「保護したとき、裸足でした。服装はノースリーブ、半ズボンのツナギ、髪の毛は肩までのストレート、所持品なしです」
「該当するような人はいませんね、行方不明者のリストにもありません」手詰まりだ。
「病院に連れて行ってもいいでしょうか?」
「健康保険が使えませんが」それは思いつかなかったな、いくらぐらいになるんだろう。
「わかりました、ありがとうございます、母と相談して病院に行くかどうか決めます」
「お宅で保護されると言うことでよろしいのでしょうか?」
ううむ、おかんが嫌な顔をしていないのでいいだろう。
「はい、当座はうちで預かります、医者と相談して署に伺うと思います」
「お願いします、何かありましたら生活課の山岸までご連絡ください」
山岸、山岸、電話台の上のメモ用紙に書き留める。
「失礼します」
チン、受話器を置く。病院を探すか。精神科とか神経科とかになるのかな?小児科かな?
小児科、神経科と言えば蔵地のところがそうだったっけ。ご近所メモを見ながらダイヤルする。
「お待たせしました、蔵地医院です」亜紀だ。一歳下のこの町に来てからの幼なじみである。
「しょうちゃん?」ナンバーディスプレイとは便利だ。親だとは考えなかったのか。
「由比です。また電話番やらされてるのか」
「えー、一応バイト料が出るんですよー。今日はどうしたの?」
「女の子を診て欲しいんだけど、混んでないかな?」
「女の子?」声にとげが入ったような気がした。
「迷子を拾ったんだよ、ショックか何かで記憶が曖昧になっているから診てもらいたいんだ、5時半くらいに行ってもいいか?」
「うん、大丈夫、待たされることはないよ」声が明るくなった。
「じゃああとで」
保険証とか用意しておくか。
風呂場の方からおかんの楽しそうな声が聞こえてくる。何が楽しいのかわからないが、さっさとすませてくれないと俺がシャワーを浴びる時間がなくなるじゃないか。ミカは何を着てもらおうか。俺の小学校時代の服で違和感のなさそうなものをピックアップしておくか。下着は…おかんにまかせよう。
このバミューダならキュロットスカートに見えないでもない。Tシャツはだぼだぼでもいいか。靴はサンダルを履いてもらおう。階下が騒がしくなってきた、女たちが風呂から上がったな。少し時間を開けてから服を持って降りる。おそるおそる風呂場を覗いてみると、ミカはすでに先ほどのパジャマ姿に戻っていた。
「お風呂、どうだった?」
「はい、あったかかったです、ありがとうございました」初めてにっこりと笑った。かわいいと言うべきだ。
「よかったね、騒がしいおばはんでごめんな。下着はどうしたんだ?」とおかんに訊いたつもりだったが、
「え、?あの、るりこさんが」おろおろとおかんを見る。
「あたしの学生時代のぱんつだよ、ちょっと大きいけどね」物持ちがいいな。
「後でコンビニで買っていこう。服も俺の子供の頃のんしかないけど、これで我慢してくれ」と差し出す。ミカは不思議そうな顔でそれらを受け取る。
「俺も風呂浴びてから一緒に行くよ」言いつつ制服シャツのボタンをはずす。その様子をミカがぼーっと眺めている。
「あー、できれば」
「はいはい、向こうで着替えようか、ミカちゃん」
湯船につかりながら頭の中を整理してみる。ただの迷子じゃないことはわかっている。自分の直感はオヤジが知らないオヤジの関係者であると告げている。蔵地の親父さんは何かいい知恵を授けてくれるに違いない。
風呂から上がってラフな服に着替えてリビングに行くと、おかんとミカが牛乳を飲みながら話をしていた。「ミカちゃん、病院で怪我とかないか診てもらおう。蔵地のとこに電話をしてある、今ならすいているそうだから行くぞ」
「亜紀ちゃんがいたの?」玄関に移動する。「うん、亜紀のお母さんが診てくれると思う。ミカちゃんはこのサンダルを履いてくれ、すまないけどぴったりの靴がないんだ。」
ミカは両手をふるふると振って「いえ、そんな、ありがとうございます」
念のため傘を手にして外に出てみると、小降りだがまだ降っていた。二三歩前に出て傘を開くとミカが入ってきた。振り向いておかんの顔を見ると、ニヤリと笑っている。何がうれしいんだ?
自分のお下がりを着てサンダルを履いている姿は、長髪の少年のようだった。数歩歩くとちょこちょこと追いつくようにしてきたので、歩幅を狭めて歩くことにする。
「蔵地ってのはうちの一家がこの町に来てからたびたび世話になっている医者でね、やぶ医者ではないから安心してくれ」
「はい、いろいろとありがとうございます」
「一応、警察にも問い合わせてみたけどミカという名前の女の子は届けが出ていないそうだ。だから当分の間、君はうちで預かることになると思うけどかまわないかな?」隣を横目で見ながら聞いてみる。
「わたしは、どこでも。その、でも、正一さんやるりこさんのおうちならうれしいです」
「よかった、法律とかいろいろややこしいことは蔵地の親父さんが教えてくれると思う。本当はうちのオヤジがいれば話が早いんだろうけど、今日からしばらく出張で帰ってこないんだ」言ってからおかんに伝えていなかったことを思い出した。
「あら、そうなの?じゃあ来週からお弁当は一つでいいのね」聞き耳を立てていたな。
下校時に渡ったいつもの歩道橋にさしかかる。
サンダルが4つ、水音を立てながら階段を上っていく。橋の上から再び世琴市の方を見ると、まだヘリコプターが3機飛び回っていた。その様子をミカも興味深げに観察している。歩きはしっかりしているので転ぶことはないだろう。立ち止まって聞いてみる。
「ヘリコプターが珍しいの?」
「いえ、そんなわけじゃないですけど、天気が悪いのにたくさん飛んでいますね」まっすぐ俺の目を見て、冷静な感想を述べる。
「昨日の晩に隕石のようなものが墜落したんだ。幸い、山の中だったから誰も怪我をしなかったし、小雨が降っていたんで山火事にもならなかった。今は防疫封鎖されているらしい、未知の病原体とか残っていたら対処の仕様がないからね」
再び視線を落下現場に移し「隕石って、宇宙から落ちてくるんですよね?なんか、もっとクレーターみたいにならなかったんでしょうか」ただの記憶喪失じゃなさそうだ。
「そう、目撃情報や爆音から計算して地表の被害が小さすぎるから、学者がたくさん集まっているんだ。他には軍隊だな、外国からのミサイルの可能性もゼロじゃないから」
「外国の…ミサイルですか…」つぶやきながら落下現場の山を見つめる。「あっ、ごめんなさい、行きましょう」
「うん」
再び歩道橋を歩き始めるが、ミカは落下現場が気になるようだった。よそ見をしながら人の傘の下を歩いているのに、全く不安定さがない。Tシャツの胸元に余裕がありすぎることに気づいたが、下りの階段に到達してしまった。
階段を下りながらそれとなく聞いてみる「宇宙とかクレーターとか好きなの?」
ぱっとこちらを振り向き「はい、変ですか?」
「階段、気をつけてね。いや、女の子にしては珍しいと思ってね。いつぐらいから好きになったの?」テレビドラマの刑事みたいだ。
「…ごめんなさい、わかりません。でも、星を見るのが好きです」少しうつむき加減で、前に向き直って心持ち慎重になりながら降りていく。はぐらかしているようには見えないなあ。でもこれで、『夜空を見た記憶はある』ということがわかった。
「じゃあ、明日、落下現場に行ってみようか」どれくらい近寄れるかはわからないけど。
「え、本当ですか!是非お願いします!」ちょうど階段を下りきった。もうそこに『蔵地医院』の看板が見える。
内科・小児科・神経科とできそうなことは全部書いてある。その下に夫婦の名前が並んでいる。幼い頃から熱を出したりちょっと大きな怪我をするとここに担ぎ込まれた。次女の亜紀とは年齢も近いこともあり友人としての付き合いが長い。亜紀の父はいわゆる街の有力者で近所で問題事が発生すると必ず顔を出してくる。
「こんにちは」重いガラスの扉を開く。受付には亜紀がナースの服装で座っていた。
「いらっしゃい」患者に対していらっしゃいはねえだろと思いながらもミカにスリッパを出してやる。
「お客さんじゃないんだからさ」
「あ、そうね、ごめん」今日はツインテールか。亜紀は腰までもある髪の毛をその日の気分でいじくるのが趣味である。しかしツインテールにナースキャップはどうかと思うぞ。
「おかん、一応保険証とか出してくれ」
「はい、保険証。診察券は作る?」と亜紀に聞いたようだが、亜紀はミカをじっと見つめている。それに気づいたおかんはニヤニヤが止まらないようだ。「名前とかどないしよっか?」
「あ、すいません、じゃあ適当にお願いします」あわてておかんの方を見る。適当って。
「由比 美佳とでもしておくね、生年月日は7月25日の満12歳でええかな」ボールペンでさっさと初診診察票に書き込んでいく。
「それでええよ」「それ、あたしの誕生日ですよー」「いっしょに誕生パーティーができるやん」なんか話が飛躍しているぞ。ブレーキをかけるか。
「何人待ちくらい?」亜紀に尋ねるが、ミカの方を見たまんまだ。ミカはおかんの手元をのぞき込んでいる。
「次どうぞ。2診です」平坦な声で告げる。第2診察室と言うことは亜紀のお母さんの方だ。
「はい、これでお願いね。保険が使えるかどうかは誰か大人の人に聞いてみて」初診診察票を亜紀に渡し、ミカの背中を押すようにしてさっさと診察室に入っていく。
「じゃあ、よろしく頼むわ」診察票を確認している亜紀に言って、後に続く。
「うん、まかせて」初めて俺の顔を見た。
なんか不機嫌だな「よろしくお願いします」美佳に続いて入室する「ぁっ、お願いします」
三人も入ると室内はかなり窮屈に感じる。椅子は三つ出されていたが立っていることにする。「初めまして、美佳ちゃん」見慣れた白衣の女医が美佳にほほえみかける。
「初めまして、お願いします」
「熱とか、どこか痛いところはないのね」
「はい」
「お口を開けて」ステンレスのへらをもって美佳の口内を診察する。「炎症も虫歯もないわね」虫歯がないのか。
「Tシャツの前をあげてもらえる?冷たかったらごめんね」背後に立っていたのだが、あわてて後を向く。「じゃ、背中」危ないところだった。「呼吸器も心拍も異常なし」おにぎり食べて風呂に入ってきたくらいだからな。「シャツ下ろしていいよ」衣擦れのかすかな音がして安全になったと判断して前を向く。
「予防接種の跡が何もないのね」予防接種?種痘とかBCGってやつか?そういえば左右の腕はつるつるだ。
「よぼうせっしゅ、ですか?」美佳はまるで初めて聞く単語を尋ねているようだ。
「そうよ、天然痘や結核の予防をするの」常駐していると思われる採血器具一式をころころと前に運んでくる。そこへ亜紀の父親がやってきた。見物しているようだ、暇なのかな?
「抗体検査するから採血させてもらうわね」抗体ってなんだっけ?免疫とかその関係か?女医はてきぱきと準備をして美佳の腕にゴムチューブを巻き、浮いた血管から少量の血液を採取した。針を刺すときに一瞬痛そうな表情をしたが、特に抵抗することもなく自分の赤い血を見つめている。注射をされたのは初めてではなさそうだ。「一週間くらいでだいたいの検査は終わるから、その時に亜紀から連絡させるね。心配ないと思うけど、今健康であることと将来の健康は別物だからね」「はい、わかりました」
絆創膏を貼るとさらに「おしっこも検査させてもらうね。トイレの横の窓に名前を書いてある紙コップがあるから、それにお願い。じゃあ、今日はおしまい、お疲れ様」
「瑠璃子さん、その子のことだけど、保護者になっていただけるのかな?」第1診察室との間で様子を見ていた亜紀の父がおかんに聞いた。
「はい、喜んで、保護者でも養父母でもなんでもやらせていただきます」俺の知らないところで美佳と話をつけていたな。
「じゃあ、僕の方から福祉事務所と警察やらなんやらに連絡しておこう。この国に住む限りは義務教育と健康保険は必要だからね。申し訳ないけど、今日の診察代は全額自己負担してもらうよ。扶養者の手続きが済んだら差額を返金できるから」さすがだ。義務教育だって?
「何から何までお世話になります」おかんが立ち上がって礼を言う。
「雪也君には大事な仕事があるからね」
診察室を出て、美佳とおかんがトイレに歩いていく。後ろ姿をぼーっと眺めていたら突然背中を小突かれた。
「誰が迷子なのよ。家出少女をナンパして監禁したんじゃないの?」
「お前、変なマンガとか読み過ぎだ。どうやったら監禁なんかできるんだよ」
「言葉巧みに連れ込んでお風呂覗いたりしたんじゃないの?いやらしい!」もう、女なんて面倒なことばかりだ。
「覗いてないって。せっかくナースのコスプレしてんだから仕事に戻れよ」
「やっぱり、覗こうとか考えたんだ!それにコスプレじゃなくてちゃんとした制服なんだから、間違えないで!だいたい今日なんかもう患者さんくるわけ」カラーン。入り口から来院を知らせるチャイムが聞こえた。「こんにちはー」あわてて受付に戻る。ああ、よかった、解放された。
おかんと美佳がトイレから戻ってきた。待合室のベンチに並んで座って会計からの呼び出しを待つ。患者は先ほど入ってきたおばあさん一人だ。
「予防接種、したことないんだ」
「はい、覚えがないです」小首をかしげて答える。
「どういうものかは知ってる?」自分もよく知らないんだけどな。
「ええと、無毒化された抗原を与えて、獲得免疫の抗体を作らせるんでしょうか?」
「詳しいな。学校で習ったの?」こうげんってなんだ?
「いえ、習った覚えはないんですが…」
「看護学校に通っていたのかも知れへんね」
「中学卒業しないと看護学校には入られへんだろ」クラスメイトに志望している女子がいたっけ。そんな話をしていたな。
「由比美佳さーん」会計から呼ばれる。おかんが財布を持って立ち上がった。
「1万5千250円になります」
「ええっ?」えらく高いな。
「保険がきかへんとこんなもんやで」
「そうなのか」美佳の様子を横目で見るが、特に驚いているようには見えない。金銭感覚も忘れているのか。
「新しい保険証ができるか、本来の保護者がわかりましたら差額を精算いたします」健康保険ってよくわからんが、国民の義務なら義務教育で教わるはずだよな、3年になったら社会科か何かで教えてくれるのか?
会計を済ませて受付の前を通る「じゃあ、亜紀ちゃんお願いね」「またな」「お世話になりました」「お大事に」
コローン、退出チャイムが鳴る「お、雨が上がった」「ほんまや、よかったね」傘を忘れないようにしよう。まだ明るいな。夕焼けまではもう少し時間がありそうだ。
帰りは二人の後について歩く。何か衣類のことや食事のことを話しているようだがよく聞こえない。聞く必要もないし。歩道橋にさしかかったがおかんはまっすぐ歩いていく。
「どこに行くんだ?コンビニは渡った方にあるぞ」
「コンビニなんかじゃなにも揃わんやないの、ゴマエーに行くよ」確かにそうだが、ゴマエーということは俺は荷物持ちになるわけだ。まあいいか。
明日まで降り続けるかと思ったら、本当に雲が切れてきた。夕焼けが見られるといいな。明日はおかんのママチャリを借りるか。ゴマエーのオレンジ色の看板が見えてきた。某大手スーパーの系列を示しているらしいが、最近デザインが変更になったようで紛らわしい。一時はつぶれるかと思ったが24時間営業などで踏ん張っているようだ。たたんだ傘をぶらぶらさせているおばさんたちが大勢出入りしている。
店内に入ると強めの冷房に襲われた。美佳も気温の変化に驚いているようだ。「寒かったら先に上に羽織るもの買おうか?」「いえ、大丈夫です」「三階行くで」三階はレディスファッションになっている。「二階じゃないのか?」ジュニアは二階だ。「失礼やね」「???」美佳は二人の会話の本質がわからないようだ。
三階に到着するとおかんは早歩きで下着売り場に直行した。
(こんなところはお呼びじゃない…)階段近くのベンチに避難する。テンションの高い関西弁が聞こえてくるから、ここに座っていればいいだろう。文庫本でも持ってくれば良かったな。こういうときに携帯電話があると暇つぶしになるのだろうか。
ぼんやりと眺めていると、おかんが売り場をちょろちょろと歩き回り、そのあとを美佳がついていっている。時々、サイズを合わせたり試着室に入ったり。いったいどれだけ買うつもりなんだ?などと思っていると美佳がこちらにやってくる。「あの、るりこさんが似合うかどうか見て欲しいって」「下着は勘弁してくれよ」「いえ、シャツとか、スカートです」やれやれ、早く終わらせるためにも相手をしてやるか。
(よくわからんので適当に答えておこう)「うん、いいね。こっちがいいよ。それでいい。問題なし。異議なし」「あんた、適当に答えているやろ」「女の服なんてわかんねーよ」「そうなんですか?」意外そうな顔するなよ。
会計を済ませて、一抱えもある紙袋を持たされる。エレベーターの方に行こうとすると「二階行くで」「ジュニアには用事がないんじゃないのか?」「下着がジュニアサイズやってん」なるほど。「下着のデザインなんかわからへんぞ」「あんたは見んでもええ」それは助かる。
二階でも紙袋を横に置いて買い物が終わるのを待つ。そう言えば亜紀のお父さんもお母さんも記憶喪失に関しては何も言わなかったな。じたばたしてもしょうがないと言うことなのかな…記憶がないことを伝えていなかったような気がする。だいたい、本人も記憶喪失の危機感みたいのがさっぱりないからな…
おかんが手招きしている。やっと買い物終了か。美佳がこちらに早足でやってくる、ちゃんと自分の声で要件を伝えに来るんだな、おかんとはえらい違いだ。あ、いつの間にか着替えたのか。さっきまでの男の子のような短パンTシャツから鮮やかな黄色のワンピースに変身している。こういうときはどう言ったらいいんだろう。
「完了?よく似合うよ」
「お待たせしました!ありがとうございます!」にっこりと笑う。左手にはさっきまで着ていた服とサンダルが入っていると思われる半透明のスーパー袋を下げている。赤い小さなサンダルが透けて見える。髪の毛もふわふわなんだな、冷房で乾いたせいかな。
「それ、持とうか?」「いえ!これはあたしが持って帰ります!」
一階の食料品売り場でさらに一抱えの食料を持たされ、店を出る。雨上がりの熱気が全身を覆う。
まだ空には青さが残っている明るさだ。二人の後を両手に袋を提げて歩く。歩道橋に貼り付けられた59号の国道標識が見えてきた。階段にさしかかったとき美佳がやってきて「お荷物、どちらかお持ちしましょうか?」「いや、いいよ、俺の仕事だから」「そうですか、階段気をつけてくださいね」「うん」
一人で階段の幅を占有しながら上っていく。背中から夕焼けが照りつけ始める。前を行く美佳のワンピースがオレンジ色に映え上がる。その輝きに気づいた美佳が後ろを振り向き「わあ、きれい」目を丸くして感嘆の声を上げる。「前見て上がれよー」言われて美佳は最後の3段を小走りに駆け上がる。
「すごーい、真っ赤だー」「綺麗やね」なんか変だな。まるで夕焼けを初めて見るようだ。立ち止まって夕日に見入っている。「明日は晴れそうだね。雨が続くかと思ったけど」「えっ?そうなんですか?」こちらを見て、ちょっと驚いた表情を浮かべる。やはり。
「天気は西から変わるから、夕焼けが綺麗だと西に雲がないんだ」「博学やね」「常識やろ」
美佳は再び夕日を見る。「夕焼け…ですか…」おかんは目を細めて同じ方向を見ている「見たこと、ないん?」「はい、覚えがないです…」ちょっとうつむく。「なぜ赤いんでしょう?遠くに離れて行っているからでしょうか?」遠く?離れて?
「あー、なんでだっけなー」なんか本で読んだような気がするな「青い方が弱なっているからやで」「あー、それで赤が目立つんか、おかんよく知ってるなー」「常識や」
ゆっくりと太陽が山の端に沈む様を見つめ続ける。「すごい。太陽。大きいんだ」サンダルと服が入ったポリ袋を胸に抱えている。ふっと下の国道を見て「大きな道路なのに、車が少ないんですね」よく気が付くなあ。
「この道路は有事の際には滑走路として使えるようになっているんだ。中央分離帯もないし、隣の町までまっすぐだろ」「…じゃあこの歩道橋は邪魔ですね」そう言えばそうだ「そうだな、子供の頃から普通にあったから気づかなかった。鋭いね」「でも、なんか素敵な歩道橋です。景色がきれいで」「高崎に住んでいる小坂の中学生くらいしか渡らないけどね」「そうなんですか?」「大人は東側の横断歩道を渡るから。なぜか中学の学区が国道をまたいでるんだよ」
夕日が沈んだ方向を見ながらゆっくりと橋を渡る。東側はまだ雲が多いが、薄紫の夜の色になりつつある。「あ、飛行機!」「え?」「目がいいんやね、うらやましいわ」指さす方向をよく見ると、かなりの高空にジェット機が4機、北から南へと向かっていた。中島のF-3Nだな。台湾州で何かあったのか?オヤジの出張もその関係かな?音速は超えていそうだが、8000mくらいを飛んでいるので音はここまで届かない。「どこに行くんでしょう?」「横須賀か駿河湾で給油して台湾だと思う」「湾で給油できるんですか?」「艦上攻撃機だからな。台湾の南部でムスリムとか赤軍とかがドンパチやっているらしい」「…戦争してるんですね…」
北朝鮮のキム王朝最後の総書記かつ国家主席が後継者無しに急死、直後に発生したクーデターを押さえるために中国とソ連の連合赤軍が豆満江を越えて侵攻。これを迎え撃つために日米韓の連合軍が38度線を越えた。同時に台湾(中華民国)が日本への帰属(日本による併合)を発表。東アジアの地図は一夜にして書き換えられた。
朝鮮半島北部は、物量の中ソ連合赤軍とハイテク日米韓連合軍が一進一退を繰り返し、核爆弾以外のあらゆる兵器の実験場となった。一方、中華民国から日本国台湾州となった台湾島は南部からムスリムゲリラと中国赤軍が侵入、皇民化教育に抵抗をし始め、三つどもえのゲリラ戦が続いている。この台湾の島嶼部で日本軍が戦術核よりもさらに規模の小さな戦闘核兵器を限定的であるが使用した。装甲車のみならず歩兵が携行して発射できる核兵器は局地戦の様相を一変させた。
中ソ連合赤軍に比し歩兵数で大きく劣る日本軍は一兵が一個中隊を殲滅するだけの火力を保持する必要があった。なおかつ、生きて帰らなければ意味がない。歩兵が最も貴重で高価な装備なのである。そして育成に要する時間は数年単位にも及び、体力的なピークは10年間程度しかない。人命を機関銃弾のように消費できる軍隊とは事情が違うのである。
そんなわけでオヤジはおかんと結婚してから除隊どころの話ではなくなったという。
胸に抱えたポリ袋の赤いサンダルを見つめて「お姉さんか妹さんがいらっしゃるんですか?」「それは楠のじいさんが、勘違いして送ってきたんだ。写真に写った亜紀を見て女の孫がいると思ったらしい。うちに亜紀が遊びに来たときに時々はいているよ」「楠ってのはうちのおとんや」うちの親戚筋はどっちを見ても戦国時代からの軍属ばかりだから、女の子を家出させてほったらかすようなことはしないはずだ。
「じゃあ大事にしないといけませんね」「まあね、亜紀のお気に入りだし」それで亜紀は機嫌が悪かったのか?
下りの階段にさしかかったとき、「あ、虹!」美佳が見る東の空にかすかに虹が浮かんでいる。見ている間に薄紫の空に消えた。「消えちゃった…」「日が沈んでも雨上がりなら見えることもあるんだな」
階段を下りながらおかんが「虹は見たことがあるんやね」
美佳は小首をかしげて答える「いえ、知っているだけで、見た記憶はないです。知らないことばかりです…」免疫については詳しかったな「なあに、そのうち少しずつ思い出すだろ」ドラマではそんなんだったし。
「お医者様は何もおっしゃられなかったですね」「見た目健康そうだし、不幸そうにも見えなかったからじゃないか?」
もう地面が乾いている。吸水性の簡易舗装とやらで歩道は雨が降ると涼しくなるが、車道はそうもいかない。もうすぐ北関東の夏がやってくる。近所の子供たちがこちらに走ってきてすれ違う。コンビニでも行くのかな。スーパーの帰りのママチャリが追い越していく。そうだ、ママチャリ整備しておかないと。
「オヤジ、パジェロ乗ってったんだな」ガレージにはテリオスキッドしかない。「ちょっと長い出張になるかもね」今までの実績ではそうなっている。「明日、ママチャリ借りる」「どうぞー」
「ただいまー」誰もいないはずの家の中に向かっておかんが挨拶をする。「うわっ、暑い」「クーラー全開にするで」「ただいまです」「待て、換気してからだ」室内は西日でほどよく蒸されていた。
四方の窓を開け放ち夕暮れの空気を家の中に通す。おかんが開けた窓の網戸を美佳が順番に閉めていく。「あのう、もう一回、お風呂入りませんか?」「せやね」「追い炊きしてくる」今日なら全身にこびりつく汗を流せば冷房はいらないだろう。
風呂場を軽く掃除して追い炊きのスイッチを入れ、リビングに戻るとおかんと美佳がキッチンに並んでいるのが見えた。「ジャガイモは芽の所をちゃんとえぐってれば、皮むきは大雑把でええよ」「はい。生ゴミはどこに捨てましょう?」なんかナチュラルにとけ込んでいる。亜紀より少し小柄なんだな。「何か手伝うことあるか?」「狭いから、ええよ」「あ、じゃあ山葵と大根おろしをお願いできますか?」そうか、手巻き寿司と天ぷらだったっけ。「了解」冷蔵庫から山葵を、買い物袋から大根を取り出し、食器棚からおろし金を探し出す。「山葵が先やで」「了解」。
テレビのローカルニュースを見ながら山葵をすり下ろす。隕石の落下現場にはもうかなり民間のテレビカメラが接近している。これなら明日には野次馬として見物に行けそうだ。大根をすり下ろしてラップをかぶせる。「ママチャリのエア見てから先に風呂に入っとくけどいいかな?」「ええよ」「どうぞー」おかんは振り向かずに答えたが、美佳はこちらを向いた。
ガレージの奥でママチャリのタイヤを軽く蹴飛ばす。大丈夫みたいだ。ライトもつくし、あとは、タンデムシートのステップだな。一番下の「6」まで下げて固定する。「6」って6年生って意味かな?
家の中に戻ると、ジャガイモが茹で上がる匂いと、ご飯の匂いがしてきた。急激におなかがすいてくる。
シャワーですませるつもりだったが、結局湯船につかってしまった。蔵地のお父さんの言葉を思い出す。(義務教育ってことは中学校だよな…本当に小坂中に通うなら亜紀に話をしておかないと…)湯船から出て水シャワーを浴びる。井戸水だから強烈に冷たい。
風呂から上がると、二人が食事をリビングのテーブルに運んでいた。「あとは俺がやるから、二人は風呂浴びてこいよ」「ほな、酢飯はまだやからそれ以外頼むわ。亜紀ちゃん、いこか」「お願いします」
酢飯以外の食事を運んで、イモサラダを適当に小分けする。天ぷらの大皿をウォームプレートに乗せて保温ドームをかぶせる。女の風呂は長くなりがちだから今のうちに海苔を切っておこう。テレビは全国ニュースに変わっていた。麦茶を飲みながら見ていると台湾南部に展開している機動部隊の映像が流れた。
(小火器を持ったゲリラだけじゃないな…)ゲリラ相手に空母を持ち出すはずがない。テレビに映っている情報は敵に見せるために流しているわけだから、「本隊は別にいるぞ」との無言の圧力をかけていることになる。オヤジがここに派遣されているならいろいろと辻褄が合う。
テレビの画面を半分にして茶の間PCを呼び出す。メールをチェックするとオヤジから出張の知らせと、美佳に関する蔵地さんとの決定事項が入っていた。えらく連絡が早いな。住民票は月曜日に発行、火曜日から小坂中に編入か。教育熱心なことだ。おそらくは父親から話されているとは思うが、亜紀に重要なお願いのメールを入れておく。こいつはPGPでロックだ。風呂場が騒がしくなったのでログアウトして全画面をテレビにする。
「おっ!」淡いピンクのパジャマに一瞬、目を奪われる。「ちょっと早いけどもうパジャマでええやろ」「おかん…」「こういうの買ってみたかってん」「よそ様の娘さんを着せ替え人形にしとるやろ」「ファッションショーや」美佳はちょっと恥ずかしそうだ。
女の子のひらひらした服なんて滅多に買えないからはしゃいでいるのか。亜紀はあまりひらひら系を着たがらないからな。オヤジが見ても喜ぶかもしれん。
「いただきます」三人とも手を合わせ料理に感謝する。
夏に食べる天ぷらはなぜこんなにもうまいのだろう。魚も大根も冬が旬だというのに。美佳は年相応の旺盛な食欲を見せている「みんなで作ったお料理っておいしいですね」「林間学校のカレーとか、やたらとうまかったよな」「テントに宿泊する遠足ですよね?」「うん、6年の時は作っている途中で雨が降ってきて大変だったけど、足りなくなるくらいの勢いで食べたっけ」「楽しそう」 そろそろ天ぷらがなくなりそうだ。
「これから毎日三人で作ったら、毎日おいしいご飯が食べられるで」寿司飯をテーブルの上にどかっと置いて、勝手なことを言う。「そうですね!」「せ、せやな…」
美佳はステンレスのボウルから寿司飯を器用にすくって海苔の上に盛っている。「熱くないか?大丈夫?」「はい、ちょうどいいです。何かお作りしましょうか?」「ええなあ」パリパリとイカを食べていたおかんがつぶやく。「えっ、あ、瑠璃子さんは何がいいですか?」「じゃ、イカもう一つ」。日本の食卓の原風景ってやつだな、父親不在だが。
麦茶の瓶が空になるころに、作った食事も平らげられた。「ごちそうさまでした」テレビをつけて食器を片づける。「あとは俺がやっとくよ」食器洗い機に並べるだけだから簡単なものだ。追加の麦茶を淹れておこう。
二人は音楽番組のようなバラエティのようなにぎやかな番組を見ている。芸能関係にはあまり興味がないので、美佳の様子を視界の隅にとらえながら、居間に常駐してある読みかけの文庫の続きを読む。時々、二人でけらけらと笑っている。女の子が一人いると家の中が明るくなるなあ。バラエティが終わって報道番組になった、二人ともチャンネルを変えることなくそのまま見ている。トップニュースはやはり台湾に展開した機動部隊だ。ここぞとばかりに宣伝しているなあ。これが目くらましであることは敵方にもわかっていて派手にやっているんだ。大戦が終わって60年以上になるがこういう心理戦は実にうまくなった。オヤジが行っているかもしれない戦場をおかんが熱心に見入るのはわかるが、同じくらいに美佳も画面を見つめている。「これは長くなりそうやな」「そうだな」「?」美佳に説明を加える。「オヤジの出張がね、たぶんここらへんだ」「軍艦に乗っていらっしゃるんですか?」「いや、オヤジは陸軍だから船には乗っていない。この近くの島か台湾南部のジャングルだと思う」「…大変ですね…」「もう小銃抱えて走り回るような歳でもないんだけど、人手不足らしい」「小銃抱えて走れるオッサンは特に少ないからねえ」。
人手不足なのは前線で損耗しているためではなく、単純に入ってくる人数が少ないからだ。日本は10年以上も戦争状態にありながら徴兵制度をしいていない。純粋に職業軍人だけで10倍以上の人口を抱える大国と戦い続けるのは、ある意味壮大な実験と言っていい。もちろん、同盟国の韓国は徴兵制度があるし、米国はもともと軍事大国だ。だが、台湾の事情に関しては表向きは干渉していない。
テレビは夕方と同じように、世琴市の隕石落下地点からの中継になった。なぎ倒された木々と深い大穴が照明に浮かび上がる。黒こげになった大木も多く見られる。
上空からの写真と地図が重ね合わされる。「古墳のど真ん中に落ちたんやね」「ちょっと外れていたら大惨事だったな」「本当ですね」
キャスターが意外なことを言っている『この隕石がレーダーによって捉えられていました』「え?レーダーに映るくらい大きいのか?」
テレビにレーダーが隕石を捉えたときの動画が流れる。「あっ」おかんと同時に小さく叫んだ。「富潟やな」「とみがた?」「オヤジの勤務先だよ、富潟駐屯地」間違いない、北側の山地の形状でわかる。
「正一、あそこのレーダーってどのくらい小さなものまで映るん?」校外実習で見学に行ったときの説明を思い出す。「超低空レーダーだから、近距離だけど、条件が良くても1mくらいだぞ。昨夜は雨が降っていたからそこまではいかないと思う」しかも雲を突き抜けて地面に衝突するまでの短い時間に映っている。
「穴が小さすぎるわ」「そうなんか?」理学部出のおかんは天文マニアだ。夕焼けが赤いのも常識として知っている。
「じゃあ、ゆっくりと落ちてきたんでしょうか?」「そうなるね。よくわかってるやん」「そうなんか?」隕石がゆっくりと落ちてくるはずがない。
『目撃者の中に、落下中の隕石を撮影していた方がいらっしゃいました』携帯電話の写真と思われる、暗くて荒い画像が映った。ほぼ中央に明るい火線が斜めに走っている。『どーんという音がしたからあわててシャッター押しました。そのあと森の中に落ちてから、もっとすごい音が聞こえてきて』
「間違いないわ、隕石や」「なんで?」「燃えながら、密度の異なる大気層にぶつかると、大きな音がするんや。さらに隕石が内部の水分なんかの膨張で分解したり破裂したりして壊れていくと、こんときにも音がする」「ふーん」美佳は興味津々だ。
「でも実際には音が届くのはずっとあとだよな、爆発は高空でおこるわけだ」「そのとおり。音が聞こえた頃にはとっくに墜落しているか、燃え尽きとるね。せやから、この隕石はゆっくり落ちてきたっつーわけや」そんな隕石があるわけない。
「じゃあ、何か残っているかもしれませんね」「テレビでは何も見つかっていないって言っていたぞ」何か見つかれば報道しないはずがない。
「明日見物に行くんやろ?」「うん、基礎軍事の自由研究にする」土曜日は選択科目である。
そろそろ美佳の目がとろんとしてきた。 「ねんねの時間やな」「そうだな」「眠いです…」
「オヤジの部屋を使ってもらうか?」「屋根裏の客用がええやろ」屋根裏部屋は居住できるように作られている。「待て、あそこは俺の部屋からしか出入りができないぞ」「出入りされたら困るのか?」「あ、あたしはどこでも」
俺の部屋に移動する。「おじゃまします」「今後この部屋は通り道になるから遠慮せんでええよ」美佳はきょろきょろと部屋の中を見回している。セミダブルのベッドと机、本棚とタンス、90式戦車のポスターとダーツ板(突き刺さっているのは投げナイフだが)、おもちゃのエアガンくらいしか置いていない殺風景な部屋だが。
踏み台に乗って天井のレバーを引くとハッチが開いて音もなくはしごが降りてきた。1m四方の人が一人通れるくらいの入り口である。
屋根裏部屋は綺麗に掃除されていた。「よかった、ほこりだらけかと思った。」「綺麗なお部屋ですね」「机もタンスもベッドも好きなように使ってええよ。押し入れは小さいけどそこにある、床に布団を敷いた方がええ?」「いえ、ベッドがいいです、ありがとうございます」「天窓も開くけど、雨の日は気をつけてな、この部屋だけでなく正一の部屋まで水浸しになるから。階段のハッチは鍵がかからんから必要やったらベッドか本棚でふさいだらええ」「どんな必要だよ。火事の時どうすんだ」
枕には夕方に買ったと思われる新品のウサギの絵が描かれたかわいらしいカバーをかけた。タンスに衣類を詰め込む。たくさん買ったと思ったが、収納してみると少なく感じる、こりゃあ明日も買い物だな。
歯磨きが終わると11時近かった。「ほな、おやすみな。夜更かしその他したらあかんで」「その他ってなんだよ」「おやすみなさい、今日はありがとうございました」
美佳がはしごを登って屋根裏に入っていく「トイレとか、遠慮無く降りてきていいからね」「はい、そーっと降ります」
PCの電源を入れて部屋の明かりを消す。机のスタンドの光に液晶画面が浮かび上がる。宿題を進めながらメールをチェックする。亜紀から一通、こいつよくわかっていないな…
「あのう…」美佳の声がした。振り向くと頭だけハッチから出して不安そうな目をこちらに向けている。「どうした?この光が明るかったらハッチを閉めたらいいよ」頭を引っ込めてベッドに戻る足音がした。「?」
不審に思ってPCを落として屋根裏に上がると、真っ暗な部屋の中でベッドで目だけこちらに向けながら「ごめんなさい、なんか眠れなくて…」そうだろうなあ。
ベッドの横に座ると、右手を伸ばしてきたので、同じく右手で握ってやる。「ごめんなさい、お勉強の邪魔をして」「いや、もう終わったから」続きは明日やればいい。
美佳の視線は、自分の後ろ、天井の方を見ていた。「星が見えるんですね…」後ろを見ると、天窓から星空が見えていた。「うん、田舎だからね」
きらりと一条の星が流れる。「あ、星が」「流れ星だ」
「ながれ、ぼし…」「宇宙の小石が大気圏に落ちてきて、光って燃え尽きるんだ」「…」長い沈黙。
「あたし、気がついたらあそこに座っていて、とても疲れていて、眠くて、正一さんの顔を見たらなんか安心して」握った手に汗がにじんでくる。「うん」
「お水とおにぎりがとてもおいしくて、でも名前しか思い出せなくて」涙があふれてくる。「うん」
「正一さんも瑠璃子さんもみんな優しくて、お風呂があったかくて」右の涙が左の涙に合流して、ぽろぽろと枕にしみていく。「うん」
「幸せだけど、何もわからなくて、時々怖くなって…」「何も怖いものなんてない」ちょっと強めに手を握ってやる。
「でも、自分がどこで生まれて、どこで育ったのかもわからないんです…」「天ぷらの作り方も、手巻き寿司の作り方も知っていたじゃないか、立派な日本人だよ」
「でも、でも…」「歌は歌えるか?」
「歌…ですか?」「そう、童謡とか」
小学校の低学年以来か?ああ、従兄弟のチビに歌ってやったっけか「ぞうさん、ぞうさん、おはながながいのね、そうよかあさんもなーがいのよ♪」美佳の目が大きく開かれる。
続いて知ってそうな歌を歌う「おうまのおやこは、」そこまで歌うと「なかよし こよし」美佳が唱和してきた「いつでも いっしょに ぽっくりぽっくり あるく♪」
「歌えるじゃないか、童謡ってのは親に歌ってもらって覚えるものだから、美佳ちゃんにも歌ってくれた親がいたはずだよ」そういうと美佳の涙がさらに流れ出した。
「もしもし かめよ かめさんよ ----」
やがて、手を握る力が緩くなり、静かな寝息が聞こえてきた。そっと手を離し階下に降りる。自室の窓の外からかすかにタバコの匂いが漂ってくる。
台所で冷蔵庫から缶ビールをひとつと、自分用に麦茶をコップに注いで縁側に向かう。
「よう、不良母」「正一、おまえ、」「大丈夫、1ミリだって油断してない」缶ビールを手渡す。
左手にタバコを持ったまま、右手でパキッと缶を開けごくごくと飲む。「ありがとう、気が利くねえ、孝行息子だ」「どういたしまして」隣に座って同じように夜空を眺める。
「自分に関する記憶と、一部の常識がすっぽ抜けていること以外は、完璧な日本人だな」「そうやねえ」とはいえ、美佳が中共のスパイである可能性が除外されたわけではない。
「楠の爺さんには電話しておいたよ」「またアナログ電話か?」去年遊びに行ったときにIP電話を設置したはずだ。何より喜んでいたのは爺さんのはずだったが。
「どうもPCとかテレビをつけっぱなしにするのに抵抗があるみたいやな」着信があるまでスタンバイ状態だからほとんど電気は使わないと説明したはずだ。「まったく、節電もいいけど千早赤阪まで電話代がいくらかかると思ってるんだ」
「まあ、ええやないの」「よくねえよ、我が家における最大のセキュリティホールだ」皇国臣民らしいことを言ってみるが、おかんは涼しい顔だ。
「結果はすぐに出るって言ってはった、蔵地さんはゲノムの総当たりをやってくれるって」「ありがたい」「ほんまは1万5千円じゃすまへん話やで」できれば何も出てきて欲しくない。
「流れ星が多いねえ」「そうだな、さっきも屋根裏から見えた」「ペルセウス座流星群か?」「方角が違うな。さそり座の方から降っている」俺は麦茶をごくりと飲み、おかんはビールをぐびりと飲んだ。
「正一、今、木星は衝の位置か?」「そんなこと急に言われても…」頭をフル回転させる。「いや、太陽側だ、夜は見えない」「じゃあ、あれはなんや?」指さす方向にはアンタレスともう一つ明るい星があった。「土星…じゃないな…」
「マイナス2等星くらいあるで、超新星やな、昼間でも見えるんちゃうか?」「それは大ニュースになるぞ」肉眼で観測できる超新星なんて、そうそうあるもんじゃない。
不思議な思いでさそり座を眺めていると、明るかった超新星が徐々に輝きを失っていった。「なんか弱くなってないか?」「せやね」「おかんはいつごろ気づいた?」「あんたが来るちょっと前や」じゃあ長くても30分だ。
「あ、消えた」「消えたなあ」「そんなバカな」「あり得へんなあ」おかんがタバコを灰皿でもみ消す。「超新星ではない、ということや。宇宙にはまだ我々の知識が及ばない未知の世界がたくさんあるんやね」「おかんがそう言うなら、そうなんだろな…天体現象でない可能性はないのか?」
「近いところで爆発したんなら、あんなにチラチラしないやろ」「なるほど」
麦茶の最後の一口を飲み干し、おかんは缶ビールを空にした。「明日はよろしく頼むで、亜紀ちゃんの方もな」「了解、あー、女なんて面倒なことばかりだ」
おかんがニヤニヤ笑いながら「子供が言うセリフやないで。これからもっともっと面倒なことを経験するし、経験した方がええ人生になる」「冗談じゃないよ」
(これ以上面倒なことがあってたまるか…)タオルケットに潜り込むと、間もなく眠りに落ちた。
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