パタパタ。
誰かが肩をやさしく叩いている。誰だ?
一呼吸でその手首をつかみ、ベッドの上に膝立ちに起きあがる。
「わっ!」「あ」見慣れない女の子…じゃなくて美佳だった。あわてて手をゆるめる。
「ごめん、痛くなかった?」「いえ、大丈夫です、驚かせてごめんなさい。もう朝ご飯できてますよ」細くて柔らかい手首だなあ。密かに感触を反芻する。
「ありがとう、すぐ着替えて降りるよ」「待ってますね」なんか、いいなあ。こんなにやさしく起こされたことなんて、もう何年もない。
自室を出て行くすらりとしたふとももを鑑賞しながら、脱ぎ散らかしたTシャツなどをまさぐる。
ダイニングキッチンではすでに朝食の用意ができあがっていて、自分を待つだけになっていた。「ごめん、お待たせ」夕食はリビングまで運ぶが、朝食はダイニングキッチンだ。「正一さんは何を飲みますか?」「あー、じゃあコーヒーと牛乳を半々でカフェオレをお願い」「はい」こんな朝食が毎日続くなら…
「あたしは車で出かけるけど、あんたらは世琴に見物に行くんやな?」「ああ」食パンにマーガリンを厚塗りしてハムとチーズとトマトを乗せた即席サンドを食べながら、今日の予定を確認する。「じゃあ、これ昼ご飯その他の資金や」と千円札を2枚差し出す。「もう一声」
ダメもとで言ってみたら3枚になった。「ありがたい」「無駄遣いするんやないで」「はいよ」美佳はそのやりとりをきょろきょろと見ている。「美佳ちゃん、財布は持ってる?」「いえ、持ってません…」「おかん、使っていない財布みたいなものないか?」「あったと思うで」立ち上がってリビングに作りつけてある引き出しの中を探す。「これがええな」小さな赤いがま口を取り出して見せる。「当座はそれでいいんじゃないか?」立ち上がって財布を受け取り、支給された3千円を折りたたんで入れる。「はい、これ、なくさないでね」座っている美佳に渡す。「あら、太っ腹ねえ」「え?あの、いいんですか?」椅子に座り直してカフェオレを飲みながら「いいよ、そのくらいのお金を持ってないと、困ることがあるかもしれん」「ありがとうございます、大切にします」財布を胸に抱き、うれしそうに微笑む。
朝食を片づけ、屋根裏の美佳の部屋の押し入れを捜索すると、おぼろげな記憶の通り亜紀が忘れていってそのままにしていた、小さな黄色いハンドバッグが見つかった。「これを使わせてもらおう、はい」「ありがとうございます、大切にします」かわいいなあ。「ハンカチはリビングにあったな、えーと、あった、はい、帽子」ピンク色の帽子が見つかった。幸いなことに丁寧にポリ袋に収納されていた。うちの押し入れは亜紀の物置か?「かわいい帽子ですね、これも亜紀さんがかぶっていたのですか?」「たぶんね。おかんがかぶっていたとは思えないし」「あはは」そこは、笑うところだ、いいセンスだ。
リビングでミニタオルとポケットティッシュを調達して、これで準備完了と思ったが、女の子特有の消耗品はどうしたらいいんだろう?その時、ガレージから軽自動車のエンジン音が去っていった。「あー、行ってしまったか」「そのようですね」問題が発生してから対処するかー。美佳はそこまで考えが及んでいないようだ、もしかしてまだなのか?とてもじゃないが聞くことはできない。
ガレージに移動して、ママチャリを引っ張り出す。「いいか、美佳ちゃん、君がこの座席に座っている間は『小学6年生』だ。特に警察官に聞かれたときは淀みなく6年生と答えてくれ」「は?はあ…でもあたし中学校に通うんじゃないでしょうか?」「このシートは12歳までなら乗れることになっているんだ。中学生だと13歳かも知れないから、小学6年生ならややこしいことにならない。お願いだ」と、手を合わせてたのみこむ。「はい、任せてください。」「ありがとう!君は空気を読めるすばらしい人だ」「え、え、え、」絶賛されて顔を真っ赤にしている。
「先に俺がサドルにまたがるから、安定したら後ろのシートに乗ってくれ。」「はい」スタンドをおろしてサドルにまたがると、タンデムシートに美佳が乗った。ごく自然に腰骨のあたりを両手でホールドする。
「じゃあ、いくよ」「はい」ガレージから道路に出るとき、車体を傾けて曲がると美佳が背中にしがみついてきた。「あ、すいません、運転しにくくないですか?」「大丈夫、大丈夫。」(ずっとしがみついてくれててもいいよ)という言葉は飲み込んでおいた。
国道に出ると世琴市との境までは一直線だ。だが、わずかに上り坂になっている。自動車や徒歩では気づくこともないような緩やかな坂道だが、自転車の二人乗りにはかなり厳しい。ママチャリではあるが三段変速なのでギアを一段軽くする。(午前中に登り切らないと、えらいことになりそうだ)
すでに太陽は地平線よりかなり高く昇っており、夏の光が夜明けの冷気を消し飛ばしていた。わずかに残っていた昨日の雨水も今ではただの水蒸気である。
「水筒持ってきたから、のどが渇いたら早めに言ってな」
「はい、大丈夫です。正一さんは暑くないですか」
「俺は大丈夫、涼しいうちに国道を走りきってしまおう」強がりでも何でもなく、この程度の暑さはこの近辺ではまだまだ涼しい方だ。それにしても、今日梅雨明けするとなるとすごく早いぞ。
アスファルトの照り返しがきつくなってくる。排気ガスも全くもって不愉快この上ない。腰をつかんでいる美佳の手首を見ると、小さな腕時計がはめられていた。おかんが渡したのかな。
「今何時かわかる?」俺は時計を持ち歩かない。
「えっと、9時半です」右手首を見て美佳が答える。
「ありがとう、だいたい予定通りだな。もう一台自転車があればよかったんだけど、折りたたみのオフローダーはオヤジがパジェロに乗せたまんま仕事場に持って行ったし、俺のクロスバイクはホイールが曲がって修理中なんだ。」早くバイクに乗れる年齢になりたい。
「そうなんですか、でも、あたし自転車に乗ったことないと思います」
「え、そうなの?」
「はい、自転車がどういうものかはわかりますけど、乗った記憶はないです」
「ふーん、砂漠とか険しい高山に住んでいたのかな?」
「え?日本にそんなとこがあるんですか?」
「いや、ないよ、冗談だ」
「あー、びっくりしました」俺もびっくりしたけどな。 

周りの風景は住宅街から田んぼに変わってきた。緩い傾斜が水田には都合がいいのか、水田のために傾斜がついているのか、いずれにしろ自転車には少々つらい地形だ。田植えから2ヶ月くらいになり、稲もだいぶ大きくなってきた。生き生きとした緑がまぶしく感じる。時折カエルの鳴き声が聞こえてくる。気の早いナツアカネが飛んでいる姿がちらちらと見える。
赤信号で止まったとき、たまらず前カゴの鞄の中から帽子を取り出した。
「風で飛ばされたら嫌だから、乗ってるときはかぶりたくなかったんだけどね」念のため落下防止用のあごひもを取り付ける。オヤジにもらったNATOの砂漠仕様の短キャップだ。
「風、強くなるんですか?」帽子をかぶり直して美佳が尋ねる。
「うん、この先の橋のところでちょっと強くなることがあるんだ」そこは自転車行の難所でもある。「後ろに乗っていれば飛ばされることはないと思うけどね」
横断歩道の向こう側に、自転車に乗った小学生の集団が見えた。持ち物から判断すると、プールに向かうようだ。市営プールではプールサイドでよく蚊にかまれたっけ。
「そうだ、美佳ちゃん、虫除けスプレーはつけてきた?」
「いいえ、でも、日焼け止めを塗ってくれました」おかんはぬかりないな。
「たぶん、それ、虫除けにもなってると思うから、心配ないか」 

信号が青になった。小学生たちが一斉にスタートを切る。まるで競争をしているようだ。これだけダッシュした後で泳ぐのか。
この国道は街路樹もないから日陰もほとんどない。まっすぐにのびているので、自動車はついつい飛ばしたくなるようだが、その分速度違反の取り締まりも厳しいらしく、無謀な運転をする車は少ない。制限速度をきっちり守って走る軍用車も多いので、トラックもあまり走っていない。
景色は一面、田んぼと防風林だけになり、前方に琴橋が見えてきた。ここから登りがきつくなる。
梅雨の雨雲は南の方にあるようだ。帰ったら天気図とあわせて昨日の流星と超新星(?)についても調べてみよう。
琴百合川が近づくにつれて風も強くなってきた。幸いにして向かい風ではないので立ち往生するようなことはなさそうだ。もう一段ギヤを落として踏み込む。
「大丈夫ですか?わたし、降りましょうか?」
「橋を、渡れば、下りになるから、一気に、行くよ」
二人乗りがこんなにきついものだったとは。従兄弟のチビを乗せたときはちょっとした荷物程度だったが、さすがに中学生くらいになると荷物扱いにはできない。タンデムシートの年齢制限が12歳までなのは、こげなくなるからかな。
琴橋は殺風景な橋だが、90式を乗せたトレーラーが渡れるくらいに頑丈にできている。

不意に左から突風が吹き付けた。帽子が飛ばされあご紐がのどを絞める。「ぐへぇ!」車体がちょっとよろめいたが、重量が幸いした。美佳は左手で俺のシャツをつかんで、右手で帽子を押さえている。
「大丈夫ですか?」突風が収まったので、美佳が俺の帽子をかぶせ直す。
「ありがとう、もうすぐ渡りきるから、もう強い風は来ないと思うよ」
「すごい、汗」帽子をかぶせるときに気づいたようだ。
「今だけ、だから」帰りはもっと汗だくになるだろうけど。
川を渡って世琴市に入ってもまわりの景色には変化はない。前方に「↑望山古墳 500m 右折」と書かれた控えめな案内標識が見えた。
あの先の交差点を右に入ればいいはずだ。
橋を渡ると下り坂なので楽になる。古墳への交差点の手前付近で右折待ちの乗用車が何台か停まっている。信号がないから右折は難しいだろうな。僕らと同じで野次馬だろうか。
誰か交通整理してあげればいいのに。並んでいる車を見ながら、悠然と右に曲がる。ここからまた古墳までしばらく上り坂だ。片側1車線のあまり広くない道路だが、たぶん、いつもより交通量は多いのだろう。特別な遺構が発見されたというわけでもないので、観光地のように整備された駐車場や土産物売りなどはない。緑地公園として機能しているので、そのための駐車場があるはずだ。
ちょっと、予想より、登りが、きついぞ。機会があったらこの自転車も15段変速に改造してやろう。たしかシマノのカタログにママチャリ用の…あれ?前方に意外なものが見えた。
「なんか旗を振ってますよ」
「検問みたいだ」82式指揮通信車なんていかついものが、こんな田園地帯に派遣されているとは思わなかった。なんで警察じゃなくて軍なんだ?OD色の迷彩服を着た軍曹の前で自転車を止める。
「ここでちょっと降りよう」
「はい」タンデムシートからひらりと身軽に降りる。
自転車を押して軍曹の前まで行くと、敬礼をされた。
「おはようございます、軍の検問です」

自転車のスタンドを立てて、帽子をかぶり直してから、返礼する。それを見て軍曹の顔色がちょっと変わった。
「お疲れ様です」
「ここから先は許可がなければ通行できません、お手数ですが身分証を提出願えますか」ごく普通の事務手続きのようだが、周りを見回すとあぜ道に兵隊がうろうろしている。
「生徒手帳でいいでしょうか」カバンから手帳を取り出し、軍曹に手渡す。生徒証を見て軍曹が目を丸くする。
「もしかして由比曹長の息子さんかい?」
「はい、即応の由比雪也は父です」オヤジは有名なのか?
「宴会で何度かお会いしたよ。君の自慢話をお聞きした。自分は富潟駐屯地の山崎だ。今日は見物かい?」どんな話をしてるんだ?
「いえ、選択教科の基礎軍事の自由研究で来ました。こちらはたまたま遊びに来ていた親戚の子です。まだ6年なので身分証とかないのですが、かまわないでしょうか」
「美佳です」
「曹長の息子さんなら問題ないよ、怪我などしないようによく見ておいてね」生徒手帳を返して言う。口調が身内向けのようにくだけている。
後ろに次の民間人の白い車が止まった。「佐々木君、佐々木一等兵、すまないがこちらの車を頼む。」
「はい」佐々木一等兵が車に駆け寄る、小銃を背負っているな。
「基礎軍事を選択していると言うことは、防大志望かい?」
「いえ、中学を出たら中野に行くつもりでいます」それを聞くと山崎軍曹がちょっと意外そうな顔をした。
「今からもう中野に決めているのかい?」
「はい、防大を出てからだと時間がかかるので」
「それは見上げた心意気だがね、曹長は君に中野よりは防大に行ってほしいようだよ」
「え、そうなんですか?」
「君が毎年曹長とやっているキャンプは、空挺のレンジャー試験よりも厳しいものなのだよ。中野では力をもてあますと思うぞ。まあ、先のことは中野に入ってから決めてもいいだろう、君は曹長のように頼りになる指揮官になりそうだ。」
「ありがとうございます、よく考えてみます」
「危険物は持っていないかい?」と聞きながらショルダーから名札を二つ取り出した。
「ナイフが一丁ありますが、お預けしましょうか?」山崎軍曹に手渡された名札を一枚、美佳に渡す。
「それは持っていたまえ、兵士の体の一部だ」

名札をつけて軍曹の顔を見ると、再度敬礼をしてきた。「いってらっしゃい、気をつけて」。自分もかかとを揃え返礼する。「お手数おかけしました、行ってきます」。美佳はよくわからないようなので、ぺこりとおじぎをしている。
駐車場に自転車を押していくと、先ほどの白のデミオが佐々木一等兵に誘導されていた。停止したデミオから運転手の若い男と、女性が出てきた。簡単な所持品検査を受けているようだ。
自転車が並んでいる列の端にママチャリを留める。いつもはいないと思われるかき氷と飲み物の屋台が一件店を出していた。3~4人の男女が並んでいて、ちょっと繁盛しているようだ。
望山古墳まではここから5分ほど歩く。古墳までの順路を見ると、明らかな観光客の中にテレビカメラを肩に背負った報道員が見える。その先、古墳の方を見ると、丸いこんもりとした山の頂上付近の森が、綺麗に削り取られたように平らになっている。本当に真ん中に落ちたんだ。
よく見ると木々の先端が焦げている。大火事にならなかったのは運がいいな。
「さっきの兵隊さんは、お父様のお知り合いだったんでしょうか」美佳が尋ねる。
「そうみたいだね。オヤジも富潟に長いこといるからなあ」もう、除隊するまで曹長だろうな。
「たくさんの人に慕われているみたいで、すてきですね」にこにこと微笑みながら話す。自分のことのようにうれしそうだ。
「カタブツでちょっと変人だけどな、軍人向きかもしれない。父方は祖父さんも叔父さんたちもカタい人たちばかりだ。由比の祖父さんはもう死んだけど」
「戦死なさったんですか?」ちょっと悲しそうな顔をしてくれる。
「いや、赤軍侵攻の前に病気で普通に死んだよ。だから俺は全然覚えていない」

由比の祖父さんに関しては、わずかに赤ん坊の頃に抱かれた写真が残るだけだ。
望山古墳は一応宮内庁の管理下にあるので、周囲は木製の柵で囲われている。この墜落事件のために、入り口が作られ、下草が払われて中心部までの道が造られていた。報道の一隊の後に何組かの見物客が続き、その最後尾に並んでのんびりと獣道のような細道を登っていく。
木陰にはいるとひんやりと涼しくなる。歩くにつれて焦げ臭いにおいが強くなってくる。
列の流れが止まった、どうやら前方から帰りの一団が来ていて、すれ違っているらしい。一人歩けるだけの道ですれ違うのは大変だ。
こちらに向かってくるのは、電気の配線工事の人たちのようだ。すでに獣道には何本かの電線が延びていたが、増設しているようだ。大きなケーブルの巻物をころころと転がしながらこちらに歩いてきている。
配線作業員の一団とすれ違うと、あとはスムーズに進むようになった。雨上がりの湿った森の空気と、たき火の燃えかすのようなにおいが入り交じって、火災現場のようだ。
だんだんと外側に倒れた木が増えてくる。細く、根の浅い木は墜落の時の衝撃に耐えられなかったようだ。このあたりから道の両脇にロープが張られている。前方の視界がよくなってきた。大きな木でも枝葉が吹き飛ばされているものが多い。

周囲の地面は衝突の時に巻き上げられたと思われる泥で埋め尽くされている。見上げると梢の間から青い空が見えるだろうが、泥が落ちてきて目に入りそうだ。
唐突に森が終わり、視界が開け、乾いた風にさらされた。青い空と白い雲が丸く切り取ったように頭上を覆っている。足下には直径100メートルくらいの穴が、スプーンでえぐったように開いている。深さは10メートルはあるだろうか、エッジの部分が深い崖になっている。
後続の観光客のために穴を時計回りに移動していく。足下が不安だったが、美佳は平気な顔で付いてくる。
まっすぐ、垂直に、中心に落下したんだ。これは墜落じゃなくて命中だ。狙わなければこんな風に当たるはずがない。ショルダーバッグからノートPCを取り出して、内蔵のデジカメで撮影する。穴の底が予想より深くて暗かったのでこの小さなレンズでは綺麗に写らない。オヤジの一眼を借りてくれば良かったが、あれは重さがなあ。
「何もありませんね」穴の底を見ながら美佳が言う。
「うん、何もないな。穴だけ空けてどこかに飛んでいってしまったみたいだ。あるいは全部溶けてしまったか。」
「溶けてなくなっちゃうんですか?」
「落ちたのが氷の塊だと、何も残らないんだ」

「氷が落ちてくるんですか?」ちょっと驚いているようだ。
「だいたいが、途中で溶けてしまうけど、地表まで届くことがあるらしい」
「でも、木が燃えてますけど」確かに、氷の塊が落ちてきて、周囲が燃えるというのは常識では考えにくいな。
「うーん、なんだっけ、質量保存の法則?だったかな?」
測量機で穴の大きさを測っている人たちがいる。そばには小さなテーブルを設置して、何台かのノートPCを置いて疲れた顔で画面を覗き込んでいる。たぶんどこかの大学か研究所から派遣されてきた研究者たちだろう。あの人たちから何か聞き出せないだろうか。
美佳が穴の底を見つめている。
「落ちると引き上げるのが大変だから気をつけてね」アリジゴクのようにずるずるといつまでたっても脱出できないに違いない。もう何人か落ちてしまったような痕跡がある。そんなことになったらここから追い出されてしまう。
「はい、気をつけます」かがんだまま、俺の顔を見てにっこりと微笑む。なんか余裕があるな。
「記憶喪失って、もっとびくびくおどおどして、家の中に引き籠もってしまうそうなイメージがあるけど、美佳ちゃんは普通だね」
「はい、何を見ても初めてで楽しいです。」

ポジティブは性格だなあ。会ったばかりの異性に連れられてフラフラと観光に出かけるなんて、俺には絶対無理だ。疑心暗鬼が優先してしまう。あー、でも俺の名前を知っていたな、もしかして美佳にとっては俺は知らない人じゃないのか?
まあいいや、楽天的なのは俺も同じだ。
のどが渇いていることを思い出して、ショルダーバッグから水筒を取り出し、付属のコップに麦茶を注ぐ。
「美佳ちゃん、のど、渇いてないかい?」コップを美佳に差し出す。
「はい、でも、正一さんは?」
「お先にどうぞ」
「じゃあ、いただきます」コップを受け取って、いっきに飲み干す。やっぱりのど渇いていたんだ。「ごちそうさまです」
「もういいかい」
「はい」
二杯目を注いで、自分も一気飲みする。ちょっと塩を入れすぎたかな。しかし、自動販売機に「塩水」なんて飲料水は売っていないし。
ノートPCをカタカタ叩いている人たちのところに近づき、生徒証を取り出す。
「すいません、質問とかさせていただいてよろしいでしょうか、学校の自由研究で来ています」
やや年配(30歳くらいか)の長身の男性が一歩前に来て、にっこりと微笑んだ。
「かまわないよ、どこの学校だい?」
「富潟の小坂中です。ええと、墜落したのは氷だと思うんですけど、どうなんでしょうか?」
「うん、氷だ、君はなぜそう思ったんだい?」なんかうれしそうだ。
「レーダーに映る大きさと速度から低密度の物質がゆっくりと命中したと考えました」『命中』だよな。
「そうだ、そして、現在までのところ隕石に固有の物質が何一つ見つかっていない。今日は気象・天文の選択科目かい?」なんか、学校の先生みたいだな。
「いえ、基礎軍事です」それを聞いて周りにいた研究員たち(学生かも)が「ほぅ」とつぶやいた。
「軍事に関係があると考えた根拠は?」この先生、ディスカッションするのが楽しいのかな?
「発射の痕跡がなく、雨の日に古墳の真ん中に命中させているからです」
「正解だ、だから軍服の人たちがうろうろしているんだよ。君も防衛大に来ないか?素質があるぞ」防大の人たちなのか。「今は質量と速度を計算しているんだがね、どうにも計算が合わないんだ。何も見つかっていないから氷と推測しているけど、減速しながら精度10cmで古墳の中心に命中してくるなんて不自然すぎるからね。君と同じように新兵器の実験かと思ったのさ」よくしゃべるなあ。
「目立つ実験ですね、本番じゃないんでしょうか?」
「鋭いね、飛び級で防大に来ないか?推薦状書くよ。本番だとすれば何を撃ち込んだと思う?」
「生物兵器」

ちょっとまずい話題だけど…美佳をちら見すると興味津々で話を聞いているようだ、理解できているのか?
「合格だ、僕のゼミの単位をあげよう」先生は満足そうだが、周りにいた学生たちが「ぇー」と漏らした。
「生物兵器なら防疫封鎖をすると思うんですけど、開けっ放しなのは手遅れということですか?」初日からマスコミがうろうろしていたからなあ。
「そうだ、君も含めて周辺住民は実験台になっている。今のところ病原性の微生物は見つかっていないけどね」

これだけのエネルギーで熱せられたんだから簡単に見つかるような微生物じゃないだろうな。
「ウイルスとか病原性タンパク質でしょうか?」俺の知識ではここまでだ。
「うむ、微生物にしろ、高等生物にしろ、氷の塊を大気圏外から突入させて軌道修正しながら減速するなんてのはファンタジーだ。これだけの技術力があればもっと効率のいい兵器で攻撃してくるだろう。もう我々の手に負えない事件になっているんだよ。君たちは運がいい、一般公開されるのは今日までだ、明日からはここの管理は宮内庁から正式に防衛省に移管されて当分の間は立ち入り禁止になる。調査隊も僕らから防衛医大に交代だ」ファンタジーか…SFにすらならないということだ。
「そうですか。あと、石室なんかはどうなったんでしょうか?」一応、墓だからな。
「そういう凝ったものはないようだね。なに、自分の墓に入れなかった豪族なんて珍しくもないよ」宮内庁の管理だけど豪族なのか。

美佳は全然退屈していないようだ。録音を終了して、手書きメモをメモリカードにバックアップする。
「ありがとうございました。いいレポートが書けそうです」
「僕は地球宇宙科学の西川だ、記録は自由に使っていいよ」オープンなんだな。
「あ、自己紹介が遅れました、富潟の小坂中の由比です、こちらは従妹の美佳です」なんか紹介するたびに美佳の立場が変わっているような気がするが、まあいいか。美佳がぺこりとおじぎをする。

「美佳です、見物に来ました」
「気をつけてね、落っこちると大変だから」
「はい。でも氷が落ちてきたのにあまりぐちゃぐちゃじゃないんですね」率直な感想を鋭く言ってくれるな。
「そうだよな、普通の雨上がりみたいだ」木の枝から時々泥が落ちてくるのは普通じゃないけど。
「それも謎の一つさ。考えてもわからなさそうだけど。よかったらできたレポートをこのアドレスに送ってくれないか、ゼミ生達の教材にしたい」と、名刺を差し出す。大学生の教材かよ、照れるなあ。
「がんばってみます」

一礼して、そのまま時計回りに穴の周囲を歩く。小動物はみんな逃げてしまったか焼け死んだんだろうな、アリくらいしか見あたらない。
前方に見知った顔を見つけた。坂下と真壁だ、こいつらこんなところでデートか?実験台のくせに。いや、俺もだけど。
こっちも女連れなので、できれば顔を合わせたくないけど。
「由比じゃないか」見つかってしまった。

「おー、坂下、偶然だなー」
「お前もデートか?」後ろにいる美佳を見てニヤニヤする。
「なんでじゃ、おまえらと一緒にするな、自由研究の取材に来たんだよ」おまえらはデートなんだな。
それを聞いて坂下が「あ、そっか、それいいな」
真壁も「グッドアイデアじゃん」
「由比はもう取材終わったの?」

「終わったよ、あとはネット上の情報を集めてそれっぽいレポートを書くだけ」
「取材源教えてよ」今思いついたくせにずうずうしいなあ、と思ったが。
「あそこの大学の先生」と防大の人たちを指さす。
真剣な顔でノートPCを覗き込みながら、なにやら話をしている学生たちを見て、
「えー、あの人たちに突撃したのか?すげーな」
「由比君、度胸あるのね」真壁は去年は同じクラスだったから、俺が何も考えない奴だとは知ってると思うけどな。
「別に逮捕されたりしないから、行ってこいよ。メモ帳くらい貸してやろうか?」一応、電池のいらない記録用具も持ってきてある。
「メモ帳くらいあるわよ」女の子って手帳が好きだよな。
「俺、持ってねえ。貸して」しかたないと言いたそうな顔で真壁がハンドバッグの中からかわいらしい手帳と小さなシャーペンを取り出して坂下に渡す。
「坂下君メモしてね、あたしが話聞くから」
「え?お前、できるのか?」自分の彼女に対して失礼な奴だな。
「あんた、できないでしょ」言い返せない坂下がちょっと気の毒になった。
「うー、わかった、おまかせします。で、由比、その子誰?女連れなんて珍しいジャン」きた。
「一年の子と時々一緒にいるわよね」よく見てるな。
「親戚の子だよ、たまたま遊びに来ていたんだ」
「美佳です」毎度同じようにぺこりとおじぎをする。

「おぉー」「おぉー」それどういうリアクションだよ。
「かわいいじゃない、あたし真壁京子、由比君とは一年の時同じクラスだったの」2クラスしかないからなー。
「俺は坂下。6年生?5年生?」5年生はねえだろ。美佳が困って俺の方を見る。
「え、あの」ちゃんと決めておかないとダメだな。
「中1だよ」

「ふーん」「ふーん」お前ら気が合うんだな。そろそろ話をそらさないと。
「取材するんなら、急がないと一般公開は今日までらしいぞ」
「えっ、そうなんか、誰が言ってたん?」釣れた、助かった。
「取材させてもらった大学の先生が言ってた。明日から軍の管理になるからだって」防大の人たちを指さす。
「そっか、じゃあ行ってみるか、京ちゃん行こうか」
「うん、行こう、ありがとね、由比君」
「どういたしまして、落っこちるなよ、お前ら」
「落ちねえよ」
穴のまわりには人が何とか行き違いできるほどの幅しかなかったので、お互い横歩きしながらすれ違う。坂下と真壁の視線は美佳に釘付けだ。早く逃げ出さないと。
美佳はゴキゲンでついてくる。歩道橋でも思ったけど、バランス感覚がいいな。
坂下たちが西川先生に話しかけ始めた。
「反対側から写真撮ってから帰ろう、暑くなりそうだ」
「はい」

逆光にならない位置までゆっくりと移動する。もうちょっと日が高くなったら底の方まで光が届くかな。
「退屈じゃないか?」
「そんなことないですよ、木と土のにおいが気持ちいいです」
都会育ちなのか?
「ちょっと写真を撮ってみる?」
ノートPCを見せる。
おそるおそる手にとって画面を覗き込む。オーバーレイされたカメラ画像が真ん中のウィンドウに表示されている。背面カメラをクレーターの中央に向ける。
「このボタンを押せばいいんでしょうか」俺が使うのを見ていたのか。
「そう、そのボタンを途中まで押し込んで、画像が鮮明になったら、最後まで押し切ると撮影されるよ」
言われたとおりに半押ししてピントを合わせ、無事にクレーターを撮影した。
「すごい、撮れました!」
「上手だな。うちのおかんはその半押しがなかなかできなくて、いつもピンボケ写真ばかりなんだ」
「あ、そうですね、半押しはちょっと難しいかも。でも楽しいですね、これ。もっと撮っていいですか?」ちっとも難しそうには見えなかったぞ。おかんが聞いたら喜びそうなセリフだな。
「いいよ、100枚でも200枚でも。ボタンを押すときに脇を締めるとブレが少なくなるよ」まだ10GB以上空いていたな。
「はい、やってみます」ホールド感が良くなった。
「低い位置から撮るときは片膝を付くといいけど、膝、汚れるね」
クレーター中央に日が差してきた。
「やってみます。明るくなってきましたね」
「斜めから光が入ると、でこぼこがよくわかっていい写真が撮れるよ」
木のかたちの影がクレーターの底に伸びてくる。水たまりもないみたいだ。
測量をしていた人たちが、黄色と黒のトラ縞のロープを渡し始めた。なんだろう。大きさを測るだけなら三角測量の方が正確だと思うけど。
ロープの片側から何か小さな箱をクレーターの中央に向けて送り始めた。あれを真ん中に設置したいのか。坂下が箱を指さして何か質問しているようだ。真壁はきょろきょろと見ているだけかよ。
OD色の迷彩服を着た軍人たちが、同じようなトラ縞のロープをクレーターの周囲に張り始めた。倒れなかった木の幹を支柱にして、けっこう本格的な縄張りだ。
「そろそろ戻ろうか。いいのが撮れた?」作業の邪魔になりそうだし。
「はい。でも近づいて撮ってみたいですね」
「パソコンのオマケのカメラだから、ズームとかついてないんだ。写真撮影が好きなら、オヤジのデジカメを借りようか、ちょっと重くて大きいけど綺麗に撮れるよ」コンパクトデジカメが欲しいな。

1,2,3・・・田んぼに3人いたから全部で8人ということはコマンダーに満載してきたのか。狭かったろうな。
クレーターを一周して元来た獣道を駐車場へ戻る。風が吹くと頭上からぱらぱらと土が落ちてくる。乾いてきたから埃っぽくなるだろう。前からはさっきよりも多くの見物人がやってきている。制限しないと絶対に落ちる奴が出てくるぞ。軍人にそんな加減ができるかなあ。
「美佳ちゃん、名札ちょうだい」
「はい」白いTシャツにつけていた名札のピンをはずす。うーん、中に着ているのはスポブラってやつか?
田んぼを巡回していた兵士も野次馬の整理に回っている。山崎軍曹は退出する人たちの応対になっているようだ。
「山崎軍曹、ありがとうございました」
軽く敬礼して、名札を渡す。
「おつかれさん、どうだったい?」
「防大の先生がいらっしゃって、興味深いお話をしていただけました」
「西川先生だね、最近出番が多いらしいよ。スカウトされなかったかい?」顔なじみなのかな。
「されました。飛び級で防大に来ないかと」
「行ってもいいんじゃないか?中野でスパイの練習をするより、幹部が育ってくれた方が国家としては助かる」スパイごっこが好きで中野に行こうと思っているんだけど。
「はい、考えてみます。」と答えておこう。

自転車を置いてある場所まで戻る。駐車場は十分広いので、いいことを思いついた。
「美佳ちゃん、自転車に乗ってみないか?」

「え、自転車ですか?」
しばらくママチャリを見つめながら考えて
「やってみます、お願いします」元気のいい返事だ。
「じゃ、メカニズムを説明するね。後ろから見ていたからわかると思うけど」
「はい」
ママチャリを立てたまましゃがみ込んでペダルを手で回す。美佳も同じようにしゃがんで手元を見ている。やっぱりちょっと胸元に余裕がありすぎるぞ、このTシャツ。
「このペダルを両足で回すと、チェーンとギアで駆動力が後輪に伝えられて、タイヤが回る」
「はい」
「ペダルを止めても、タイヤが空回りするような一方通行のギアが入っているから、走行中に足だけ止めてもそのまま慣性で進み続ける」フリーホイールの説明は難しいなあ。
「はい」
「ハンドルのレバーをひくとブレーキがかかってタイヤが止まる。右が前で左が後ろ。二輪車は個別にブレーキコントロールしないと倒れる」空回りしている後輪が、キュっと音を立てて止まる。
「はい」
「ハンドルと自分の体の重心移動で進行方向をかえる。バランスを崩しても不用意にブレーキをかけないこと。二輪車っていうのは走り続けないと倒れてしまう乗り物だから。以上、後は実践しよう」
ママチャリを駐車場の中央まで移動して、ゆっくりと路面に倒す。
「まずは、引き起こしからだ。これができないと倒れたときに立ち往生するし、修理も怪我の治療もできない。自分が思うように自転車を起こしてスタンドを立ててみな」
「はい、やってみます」
美佳は自分に一番近くて、しっかりしていそうな場所、サドルを両手で持って真っ直ぐに起こそうとした。普通はそう考えるよな。
だが、半分くらい起こしたところで前輪がくるんと回ってしまった。
「あっ」
自分でもまずいと気づいたのか、無理に立てようとせず、ママチャリを路面に戻して全体を眺める。
ハンドルを両手で握って直進にし、ブレーキをかけつつ引き起こす。途中から腰をサドル下に入れて直立させる。いいぞ。そのまま、ごく普通に右足でスタンドを立てた。
「OK。完璧。スタンドのロックレバー、うん、それ、それをパチンとはめて」
バチン
「こうですか?」
「そう、それで勝手に前に倒れることがなくなる。そのままサドルに腰掛けて。大丈夫、壊れやしない」
特に指示しなかったが、左足を左ペダルに乗せてなめらかに着座した。
「これでいいですか?」
「うん、ペダルをこいで」
後輪が回転する。
「タイヤが回ると、ジャイロ効果で車体全体に直立しようとする力が働く。なんとなくわかるかな?重心を左右に振ってみるとわかるかもしれない」
「わかります」
「じゃ、後ろブレーキかけて、降りて」
キュっと後輪が止まる。

「押して歩いてみよう。ロックはずしてスタンドを落として。ハンドルは握ったまま足だけでやるんだ」
「はい」
あー、もうちょっとサドルを低くした方がよかったな。つま先がぎりぎりだ。さっき俺がやったところを見ていたのだろうか、この手順は一発だ。
「8の字を描くように、そう、ここで右回り」
「動き出すと軽いですね」
「うん、だから止まっているときの扱いが大事なんだ。ここから左に回って、最初の所に戻ろう」
「はい、できました」
「事前審査は合格。本試験いってみよう」
「え?試験ですか?」
「そう、試験。スタンド立てて、ロックして、サドルにまたがって」
「はい」
先ほどと同じようにママチャリに着席する。
「ペダルをゆっくりとこいで」
「はい」
言われたとおりに後輪が空転する。
タンデムシートをつかんだまま、ロックをはずす。
バチン。
「えっ?」
「あわてない、そのままタイヤを空転させて。ハンドルは軽く握って、肩の力を抜いて」
「はい」
何も言わずにスタンドをおろす。後輪が路面にこすれる。
「強く踏んで。支えているから、大丈夫、倒れない」
「わ、わ、わ」
「もっと強く、リズミカルに」

惰力で動き始める。
「わわ!」
「ハンドルは卵を持つようにふわっと」
カバンが邪魔だ、下に置けばよかった。
ママチャリを補助しながら併走する。もういいか。手を離す。力強く直進する。
「おめでとう!」
ママチャリを追い越す。
「え?できたっ!速い!すごい!」
横に並んで、単独走行していることに初めて気づいたようだ。
「人と車に気をつけて!好きなように走っていいよ!」
「はいっ!」

今朝羽化したと思われるセミが鳴き始めた。運が良かった奴らだ。軍の調査が終われば今まで通り立ち入り禁止になって、鳥や虫も戻ってくるだろう。
美佳は帰りは自分が運転すると主張したのだが、さすがに体重差も熟練度の差もありすぎるので、後ろに乗ってもらった。それ以前にタンデムシートは12歳以下までだ。
帰り道はやや下りになるので軽快だ。風も追い風になって気持ちがいい。
アスファルトの照り返しは強烈だが走っている間は気にならない。排気ガスから逃げるように田んぼ側を走っていると、カエルの鳴き声が聞こえてくる。
信号待ちでお茶を飲んでいると、美佳の膝の上に蚊が優雅にとまっているのが見えた。美佳の顔を見ると気づいているのかいないのかわからないが悠然としている。敵機に気づかれないように左手をハンドルから離し、呼吸を止めて腕全体に瞬発力をためる。

スナップをきかせて美佳の膝をひっぱたく。
ペチン!
「ぅひゃっ!?!?」目を丸くしてかわいい悲鳴をあげる。
「撃墜確認」手を離すと新鮮そうな血がべったりとついていた。
「え?ええ?」自分の膝と俺の手のひらに広がった鮮血を見てびっくりしているようだ。
「先に渡るね」信号が青になったのでさっさと渡る。
渡りきってからハンカチに麦茶を少し浸して、美佳の膝をきれいに拭き取る。
「蚊が止まっていて血を吸っていたよ」
「え?あれがそうなんですか?」
「見たこと無いの?」これまた不思議なことだ。
「血を吸う虫だってことは知ってますけど、害虫なんですか?」
「刺されたところは痒くなるんだ」小さいけど赤くふくらみはじめている。
「そうなんですか、迷惑ですね」刺されたところをまじまじと見ている。
「痒くなるけど、引っ掻かない方がいいよ」
「はい、できるだけ我慢します」

病気をうつすこともあるらしいけど黙っておこう。
蚊が血を吸っているのを平然と見ているなんて不思議な子だなあ。ゴキブリを見ても驚かないんじゃないだろうか?
すべすべの膝小僧に噛み痕がつくのはなんか悔しいな。いや、そういう問題じゃない。
「走っていれば刺されないから、行くよ、帽子飛ばされないように気をつけて」
「はいっ」

ガレージにパジェロが置いてある。オヤジが帰ってきているとは思えないが。

「ただいま」「ただいま」声がそろってしまった。
「オヤジ帰ってんの?」見慣れない女性の靴が置いてある。

オヤジの靴は見あたらない。
リビングには亜紀のお母さんがいた。「こんにちは、正ちゃん、美佳ちゃん」
「こんにちは」「こんにちは」
「雪也さんの出張が長くなりそうでな、パジェロを運んでもらったんや。自転車も入ってたで」
ありがたい。
「どこなんだ?オヤジ」美佳と並んでソファに座る。水筒に残ったお茶を蓋コップに注いで美佳に渡す。
「パスポート持っていったから、海外やろ」
「前線が国境線だからパスポートなんかいらねえよ。そうだ、虫さされのかゆみ止めある?」
「救急箱にあるで、昼ご飯、蕎麦でええか?」女たちがソファから立ち上がる。
「あー、美佳ちゃん、ちょっと待って。痒くならない薬塗るから」
「蚊に食われたん?若くておいしそうやもんな」
「そういえば痒くなってきました」左膝に小さな赤い点ができている。
「掻くなよー」救急箱からムヒを取り出して、少量を美佳の白く綺麗な膝に塗り込む。
「なんかすーすーします」「これでよし」
美佳もキッチンに並ぶが、蕎麦とあっては出番がなかったようだ。山葵をすり下ろしている。
やがて大皿に山盛りの蕎麦ができてきた。俺は麦茶を持ってきて並べる。
「いただきます」×4
4人はずずーっと日本人らしい音を立てながら冷たい蕎麦をすすりこんだ。うまい。出汁が関西風なのはおかんの主義に基づく。
「おいしいねえ」「おいしいですねえ」山葵を追加して食べ続ける。

「美佳ちゃん、身長とか体重を量るのを忘れていたから、明日また病院で来てもらえるかな?」亜紀のお母さんが言った。
そういえばそうだ。
「はい、わかりました」美佳は小さな体のどこに入っているのかと驚くくらいによく食べる。おかんが、磯部揚げを一山持ってきた。
「学校に提出する書類にいるのよね。視力も検査するから、メガネがいるくらい目が悪かったら今日のうちに用意しておいてね」
「目は、悪くないと思います」磯部揚げを食べながら答える。俺も対抗しなければ食いっぱぐれそうだ。
「うん、悪くないどころか、かなり良さそうだよ」高空を巡航していた戦闘機を見つけているくらいだからな。

「抗体検査の結果が明日の午前中になるから、それが問題なしだったら月曜日から学校ね。親戚の人とか見つかるまでの間だと思うけど、みんなと仲良くしてね」
そっか、もしかしたら一日で転校してしまうこともあるんだ。
「はい、ありがとうございます」
「こうたい検査ってなんですか?」好奇心から訊いてみる。学校に入るのに必要なことかな?
「簡単に言うと予防接種をしているかどうかの検査よ。集団生活する前に法律で決まった免疫を持っていないといけないの。美佳ちゃんは注射とかされた記憶がないって言うから、血液検査しないとわからないの」法律で決まっているのか。
「あたし、注射はされたことがあるような気がします」不安そうな顔をしている。
「心配しなくても大丈夫よ、今はハシカだけでもやっておけば時間が稼げるから。他は流行していないからね」
「必要な分をいっぺんにできないんですか?」三種混合とか見たような気がする。
「そんなことしたら、トラブルが起きたときにどれが原因なのかわからなくなるでしょ」
「ああ、そっか、問題が起きないとは限らないのかー。考えたこともなかった」
最後の磯部揚げを美佳が平らげて、おかんがデザートの葡萄を持ってきた。この間千早赤阪から送ってきた取れたてだな。

冷やした麦茶、と思ったらそば茶だった。これはうまい。楠のじいさんはこんなものまで作り始めたのか。
「このお茶も楠のじいさんから送ってきたの?」
「せやで、多角経営してはるわ」
「この葡萄、すごくおいしいです」美佳は巨峰の種を器用によりわけながら食べている。自転車に乗ったことがないのに葡萄の食べ方は上手だな。
「隕石見物はどないやったん?」おかんが口をモゴモゴさせながら訊く。
「写真見てよ」カバンからノートPCを取りだし、全体が見える写真を表示する。おかんが食い入るようにみつめる。
「自然現象やないな」即断した。さすがだ。
「うん。何か高性能な新兵器の実験かもしれないって、そこにいた大学の先生が言ってた」
「それで兵隊が写っているんやな」
「よく見えるな。明日から軍の管理下に移って一般人は立ち入り禁止になるよ」
「そんなことしても雨風が吹いたらすぐにボロボロになるがな」
「それもそうだ。すぐに雑草だらけになるし」

食後、女性陣は買い物に出かけてしまった。女というのは何かにつけて買い物をしたがる。
昼寝をしようかと思ったが、レポートを書き上げることにした。
主に先生との会話の内容をテキストに起こして、写真を切り取って貼り付ければそれらしいものができた。軍が出張っていたことはレポートの雰囲気を盛り上げてくれて都合がいい。
自然現象である可能性と、何かの実験である可能性と、何かが送り込まれた可能性で締めておけばいいだろう。
今朝はチェックを忘れていたが、昨夜の発光現象についても調べてみるか。
『蠍座の怪夜』
天文系のサイトを巡回するとそんな言葉が目に付いた。

『発光源は蠍座の方角数光年の距離』数光年とはずいぶんとアバウトだなー。確かに光っている時間は短かったけど、日周視差でももうちょっと精度を上げられるだろう。
当時真夜中だった日本を中心として夜側の主な天文台は雲の下だった。ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡も月面のかぐやの遠眼鏡もあさっての方向を向いていたようだ。これじゃあ正確な距離はわかりそうにないな。アマチュアが偶然撮影していればいいが。
公転軌道上のトモナガが流星を観測している。関連しそうな彗星は観測されず、か。古い時代の小さな彗星の痕跡と交差したのではなかろうか、との結論。地球近傍小惑星の探査の必要性が云々…探査してぶつかりそうだったら破壊しようってのか?

人類文明を滅ぼすようなサイズの小惑星なんかどうせ破壊できないんだから、あきらめればいいのに。文明が滅びてもヒトは絶滅しないだろ、たぶん。
発光現象と流星群を関連づけている記事がいくつかあるが、もちろんフィクション扱いだ。しかし、「輻射点と発光点が一致している」というのは偶然にしては出来過ぎている。誰でも関連づけたくなる。
この流星群のうち、一発がたまたま望山古墳に命中したかもしれない、とレポートに書いたらバカにされそうだがどうしよう。
西側の窓から午後の日が入ってきた。暑い。耐えられないことはないが、エアコンを入れて昼寝にしよう。レポートはこのままでいいや。
ベッドに転がってタオルケットをかぶると睡魔が忍び寄ってきた。

(オヤジには連絡が付かないだろうから、楠の祖父さんに電話した方がいいかな)と思ったが、意識が黒い沼地に沈んでいく。あとにしよう。

つづき 戻る